はや四月。
だいぶなまけていた。
ほんのわずかだが、家庭教師の仕事が増えたことで、日記と遠ざかっていた。

何度も書くが、やはりここは、気持ちが落ち着く。
本物の日記帳ほどのことは書けないものの、かなり思ったままをつづれるから、相変わらずここが好きだ。

ただいま、月曜から金曜まで教授業で埋まっている。
つまびらかにはできないが、ただ一件、お母さんが美人のお宅がある。
無論、茶髪なぞではない。子を持つ身でありながら、似合いもしないロングヘアーにしている主婦が多くなったような気がする中で、このミセスはごく自然なヘアースタイルだが、やはり美形だからだろう、そこにいるだけでうっとりさせる何かを感じる。

その美形にプラス明るさと気さくなムードがまた自然で、ツンとしたところがない。
話上手・聞き上手な感じで、それが愛くるしさにも似た魅力となっている。

こんな美しいミセスがいたとは近年ない発見であり驚きである。
このお宅をクビにならなければ良いのだが、私の実力次第と暗に示す物言いだけは、やや恐ろしい。

美しいものにはトゲがあるの例えでもあろうか、毎週ただ見とれるばかりは許されぬは必定と心得んとするも、やはり目の保養と楽しむ気持ちも起きてしまう。
ご主人がうらやましい。またも、我が煩悩去らずか。
ダイアリーノートは、黙っていても、カレンダーが出てくれる。
なかなかよい。

文案浮かばず。
なお、インフルエンザ流行期に入ったと聞いたが、我が家は長年、無縁だった。

せいぜい八度の熱を出す風邪ていど。
無論いつ流感にやられるかわからぬ。

要するに運の問題だ。
おしまい。
ほかの無料日記があったので登録したが、このダイアリーノートのような、わかりやすい説明がなく、どこをどうすれば日記文章がかけるかがわからず、即時削除した。

やはりここが良い。
何が良いかというと、ズバリ「日記を書く」と表示されているからだ。
日記は日記。書くのは日本人なのだから、くだらぬ横文字言葉はいらない。

更にここは、書いたあと、「日記を読む」との表示もあって、これほどわかりやすいものはない。
前回日記に書いた通り、即座に日記一つを閉鎖。
そして、これまで画像がバツ印にならぬよう配慮して来たが、これも、どうでも良くなり、画像倉庫を次々整理し、60枚台にまで減らした。

さて、正直なところ、連日つづって来た楽天日記も、状況一大変化を経験したことにもより、テーマも何もなく漫然とつづるだけの作業に疲れた。

実はここで一旦閉鎖も考えてみた。
我がアクセスは開設当初が余りにも少ないので、今後一日でも書かなければ激減する。

これも未練と割り切ろうかと思っている。
人に見せるのが公表日記の目的ならば、私の望んだ日記ではない。
日記交流も私の望むところではない。

パソコンという機械の画面に日記が現れる面白さを楽しむのが当初の目的だった。
日曜付の日記は百件をわずか超えたばかりで、やはり戦記テーマはアクセスがのびない。

のびずとも良いが、更にマイペースを目指すには、何を書こうか、文案に行き詰まり、キーボードの手が鈍る。
ここで昨年のこの時期のことを思い出した。

深夜の風呂屋の清掃のアルバイトに出たものの、三日ならぬ四日坊主でやめたあと、生活がやや荒れた。ふてくされて、寝床にもぐりっぱなしの生活が続いた。

このかん、楽天日記は、「本日休筆」とさえ書いていない。
これがほぼ一ヶ月続いた。アクセスも激減した。書き込み率も90パーセントを割った。

二月ごろから復帰し始めた。
だが、私の復帰を祝う人は一人もいなかった。
実物も人からけいえんされるなら、日記も同断だ。

今後はどんな心構えで書いていこうか。
今、頭の中はからっぽである。
もし、私の日記を、エネルギッシュだと思う人があるなら、誤解である。

書くからには元気を装うし、どうせ書くなら連日書く。
ゆえにスタミナは減っているのだ。
本物の運動をしているわけではないから、何かしら書ける。

それでもスタミナは減り続けている。
去年暮れ近くからここまでは、時々「実験日記」とでも言うべきことを行なってきた。

これも一段落の感がある。
今年は孤独に徹する年である。
孤独な生活に甘んじようという人間に何が書けるか。

大好きな兄亡きあとの生活はおだぶつを待つあいだのオマケである。
兄以外に、本心を話せる者は一人もいない。
出た大学レベルは兄がいささか優る。

とりあえずいずれも国公立理系で、対等とみなすことにする。兄よ、許されよ。
学歴レベルの対等は、会話にも影響する。

兄が私に優って、私は聞き手に回った。これを私は喜んだ。
賢兄愚弟で満足なのだった。
兄が大好きだったからだ。

本来なら兄は優秀、私はとりえなしで大人になるところだった。
兄が様々に啓発してくれた。
中学に入るころ、私は兄と同じ高校へ進むとは思っていなかった。

親も思っていなかった。
兄と同じ学力レベルで高校に臨めることになったのは、中三の時だった。

高校ではさすがに最下位をうろつくと思ったが、これも兄の良き影響で、国立大学に現役合格した。
兄は常に良き先輩であり、長じては友の如きものだった。

その兄をわずか46で失った私はぬけがら同然である。
今も、うつろな心のまま、なんとなく生きているていである。
その兄の享年を既に過ぎた。

私は未だに兄の死を承知していない。
心は既にズタズタになりきって、今はつぎはぎだらけの心で生きている。

楽天日記。これも急速にくだらなく思えてきた。
実はパソコンの具合が悪い。
この機械が壊れる時を狙って、楽天日記休筆に入ろうかとも思っている。

以前60才を視野に入れたなぞと書いたが、気力は急速になえている。
別に誰かに約束したわけでもない。
気が変わることはある。

キーボードを打つ手の動きが鈍くなった。ここでとめる。

訣別せり

2005年1月28日
ほんの少し前、戦前の唱歌「桜井の訣別」を語り合ったのが夢のようである。
ここは、もはや日記の隠れ家ではなくなった感があったが、アクセスに変化が認められないので、さすがに楽天日記には書けないことを書く。

夕子と名乗る女がただ一人しかも長く続いた交際相手だったが、ゆえあって、訣別となった。
ひらたく言えば私がフラれたのだが、この一語で済ませられる訣別ではなかった。

さすがにお互いの生活がからむことゆえ、つまびらかには出来ぬが、もはやこれにて遂に別れとなった。
お互いの年齢が年齢なので、若い頃なかなか消せなかった未練というものは余りない。

今度こそ私も望んだが、望まずとも夕子が引越し先の情報一切を明かさぬと約束した。告げたと言い換えても良い。
ただ、彼女の名の楽天日記は閉鎖せぬと約してくれた。

私はメールアドレスをかえて、何もかも個人情報が不明になるよう頼んだ。私たちが契約しているトーカイというプロバイダーでは、既に二つまで無料でメールアドレスを持つことが出来る。楽天日記は彼女の旧アドレスのまま放置される。

私は仕事の都合で現アドレスの変更はわずらわしくなるので、変更しない。
楽天日記では、まだまだ元気を装うことが出来る。
その泰然自若たるさまが、彼女の今回の心変わりにつながったとだけ、ポツリ教えられたが、余り真意はわからない。

わかろうとするも未練と思い、私も心境変化の理由を問いただすことをしない。
ただ、彼女が私に訣別を示唆した書き込みがあったので、一旦アップしたあと、楽天日記の書き込みをコピーしてみる。

Re:アクセス記録表示の表示(01/26) くノ一さん
ごふさたしていますね、お互いに。
まあ、それにしても、よくいろいろなテーマが毎日浮かぶものですね。

それに、最近の楽天日記は前のようにワードに下書きして、推敲して、それからアップというやり方を余りしなくなりましたね。
これも「第二の風」の表れでしょうか。

とうとう「メル友」になりましたね。
心境変化、確かに承知致しました。
お互いあすのことはrainbowmaskさんの口癖の通り、一寸先は闇ということでしょう。

冬本番は例年通りならば、二月です。
お互い体に気をつけて春を待ちましょう。
いえ、rainbowmaskさんはムカデが出る季節が嫌いだから、複雑な思いでしょうか。
では、失礼致します。(2005.01.26 16:37)

さすがの鈍感な私も、常と異なる書き込みの雰囲気に尋常ならざるものを覚えていた。
直接問いただす、問い詰めることは必ずするまいと思うとは書いたが、推測はしてみる。

なに、彼女の文面にこそ、むしろ私に心境変化があったことを記してある。つまり訣別の暗示は私からであり、彼女はここで決意し、同じ心境に至ったと解釈すべきである。

私は彼女を必要としなくなったのである。それをこのところのお互いのぶさたから薄々感じ取りつつあった夕子が、あるいはいささかの淋しさを思い、そして、数十年間一人暮らしに甘んじてきた過去を振り返り、第二の人生に臨まんとして、まず私との長年のつかず離れずの縁に終止符を打ちたいと思ったのだと察しられる。

彼女は私から離れ、楽天日記を置き土産として、登録のみ継続することとなった。
夕子の楽天日記は本人不在の空き家同然である。
今書いている内容をそのまま楽天日記にもアップしようかと一度は考えたが、中止する。

過去、彼女との様々なやりとりを数多くつづって来たが、もはや彼女は私の楽天日記に登場しても、かつてのように交流相手たちから注目されることもなくなった。
彼女は平成15年開設の私の不人気日記の年内一万件アクセス達成を助けてくれたが、このところの二人をテーマとした日記のアクセスがのびないことに、ややがっかりしていた。

更に私がマイペースのテーマで日記を書くようになったのをずっと見続けた結果、自分の役目は終わったのだと思うと共に、私が彼女に余り意を寄せぬようになったのを敏感に感じ取った。

私は必ずしも気分さっぱりとしたわけではないが、二人の危うい仲をつなぐ大きな力となり続けた楽天日記に、彼女の活躍の場はなくなった事実を悟って、二人をつなぐ糸は急速に細くなったと判断したようだ。

既に今、彼女は更なる引越し先をさがして、またも忙しいようだ。
あと何日間、今の住まいにいるかはわからないが、私も必ず会うまいと決心した。

私も独身主義を決意した。彼女も決意した。
これは仲がこじれてトラブルに発展した挙句の別れではない。
最後にここで訣別の意を表しておく。
夕子よ、これで本当の訣別だ。
体に気をつけて、長く息災でいていただきたい。

長いあいだ、私の相手をしてくれて、ありがとう。
なお、君の日記は、私の気持ちの整理がついたら、閉鎖するかも知れない。
楽天日記そのものには訣別のことは書かないが、閉鎖すれば、あるいは交流している何人かには気づかれるだろう。

それで良い。
ともかく、いつまでも元気で暮らして下さい。
持病も抱える身となったけれど、これは万全を期しているとは思うから、余り心配しなくても大丈夫と思うが、くれぐれもご自愛下さい。
ではこれでお別れだ。さよなら。
ここは日記の別荘と称して気に入っていたが、検索で出るようになってしまったからには、別荘ではあっても、もう一つ望んだ隠れ家ではなくなってしまった。

私はガラス張り日記と評価している「楽天日記」では、不人気ながらひたすら書き続けて、ただいまようやく五万件を記録している。
ここはまだ三桁の後半に入ったばかりだ。

本日、授業があるゆえ、余裕があったらまた書く。
ただ、どこの日記に書いても、いずれ検索に出るのなら、出ないようにしたいが、タイトル通りでわからない。

ここは知られたくない。
特に楽天日記だけの交流の人には。
遺伝病と言っても良いのか、私の無分別のせいで、年来の高血圧が悪化し、めまいが出たと訴えるたかはしさんの文面に、いささかなりとも、恨みがましい気持ちがこもっていればかえって気が楽になる。そう思えるほど、たかはしさんからの返信メールは仰天に値するものだった。

しかも、たかはしさんは長年の特撮趣味、あるいはパソコンの高度で数多い技術への慣れもあってか、送信日をきちんと記して毎回送って来る。
彼の几帳面さ、いや、これもやはり人柄の表われではないかと判断した。

それにしても、余りにも出来た人柄である。私はこれまでのいきさつをどうこう言うことをやめて、ひたすらお詫びする文面をしたためて、送信した。以下、その原文である。

もはや、ひとことの弁解もありません。
ただ、これまで総スカンを経験したHPばかりでしたので、たかはしさんの、(失礼ながら)きっと、私への、いたたまれない、理不尽とのお気持ちを抱かれているのではと察しながらも、私のこの無礼千万なメールに、これだけ誠意と大人の男の人としての礼儀を具現できる文面を拝見し、HP観が変わりました。

さりとて、持病の症状重いたかはしさんの心中、とても私を許せぬお気持ちと察し、かつ、それで当然のことと存じます。

ろくなHPも作れない私に、ふってわいた幸運といってもよい、ありがたい申し出でした。

撤去など、私が偉そうに言う立場にないことは明らかでして、すべて製作して下さったたかはしさんの考え一つで、あっというまに拙劣極まる私の写真なぞ、霧のように空中へ消えてしまうのは必定です。

取り返しつかないことをした後悔ばかり立ち、今後むしろたかはしさんの許しがたい思いが募ることを予想して、悔やむばかりです。

掲示板にも、私のような短気者へのみせしめとして、自ら己の不明を白状する文面を書かせていただきました。

無論、たかはしさんの症状などには言及しておりません。

私自身、続々更新される目の覚めるようなレイアウト画像に見入っていました。

ご勘気、癒されることは、私に関してはむつかしいと愚考致します。
得がたい大人の男の人との交流を、仲間の軽口に軽率にも乗って、まことに慙愧にたえない失言を働きました。

我ながら無念です。なお、勝手ながら、更新には至らなくても、これまでの画像だけでも、残していただければ望外の喜びです。

私が申せた筋ではありませぬが、お大事になさって下さい。

以上、私の謝罪メール。
たかはしさんからのメールが2002年10月6日、午前0時10分、私は同日午前3時40分にお詫びのメールを送信した。
これが、私がたかはしさんに示すことの出来る精一杯の詫びと誠意の形だった。

ところが驚くべきことが続いた。
同日午前7時29分に、もうたかはしさんからのメールが届いたのだ。
7時29分に届いたわけだから送信はそれより前である。
たかはしさんは毎朝5時台に起きる規則正しい生活を送る人ということが今ではわかっている。
以下、私が同日早朝早速受信したメールの原文である。

ホーネット 様

いつもお世話になっております、「懐かし掲示板」の管理人のたかはしです。

メールをありがとうございます。

今朝、目覚めましたなら、めまい等もなくなり体調も良くなりました。
ホーネットさんにはいらぬご心配をおかけして誠に申し訳ございません。

また、このたびのホーネットさんを怒らせてしまったことに関しまして、
あらためまして、心からお詫び申し上げます。

なお、掲示板にカキコミをいただきましたが、ご自分を責められては私が困ってしま
います。

shunさんも返信に書かれておられるように、文面を読まれても
ほとんどどなたも事情がわかりませんので、困惑されるばかりと思います。
また、このたびのことは事情を説明することもないと思うのですが、いかがでしょう
か?

ホーネットさんにご承知いただければ、このたびのカキコミは削除させていただいて
もよろしいでしょうか?
そのまま掲載した方が良いというのであれば、ご意向のままにさせていただきますが。

また、ホーネットさんのページですが、よろしければ引き続き更新されてはいかがで
すか?
表紙シリーズはもうすぐ完成いたしますし、今後もさらに増殖することも推測されま
す。
微力ながらお手伝いさせていただきます。
ホーネットさんのページを作っていると、熱気や情熱を肌にひしひしと感じて、
本当にうれしくなります。

また、すでにエッセイのコーナーもご用意いたしておりますので、
そちらに書きたいテーマでじっくりと書かれてはいかがでしょうか?
まずはすでに初稿も出来ておられるようですし、
ホーネットさんのお考えをご自由に書かれてもいっこうにかまいません。
ご考慮いただければ幸いです。

では、これまで同様にどうぞ掲示板にカキコミをいただきますようお願い申し上げま
す。

ありがとうございました。

2002.10.6
誤字、脱字等お許し下さい。

たかはしよしひで
hop@cello.ocn.ne.jp

高橋良秀さんという得がたい人物に救われた思いに浸り、私はあたりが明るくなってしばらくした教室の中で、男泣きに泣いた。
50づらさげて、こんなことは今さら書きたくない。
ただ、たかはしさんという気の練れた大人の男に巡り会った奇跡をつづりたかった。

もはや、私の書き込み「手塚神話のタブー」のことなど、どうでもよい。
所詮、子供だましのロボット漫画を描いた一漫画家のことだ。
私は手塚治虫など、どうでもいい。

大事なのは「人間はプライドの動物だ」と断定していた私の思想を崩すたかはしさんが現われたことだ。
多くがプライドを持つ。

手塚神話の内容の是非について、私が主張し、百万言を費やして己れの一分を通そうとしても、相手にも言い分がある。
否、その前にメンツというやっかいなものがある。

交流が断絶し、それまでの仲が水のあわになるのは、双方の思想をとことん闘わせる前に、お互いのプライドを先に出すからだ。
だが、ここにただ一人、プライドをほとんど抑えあるいは出さずに、理性と寛容を以て臨んだ人がいた。

私はあまりの意外なことの展開に、今以て信じられない。
だからこそ、アトムのことなど、どうでもいいと不承するようになった。
先に書いたように、蒸し返すなら言い分はある。
だがそれをたかはしさんに訴え直さんと委曲を尽くすのにほねをおったところで何になろう。

くだらぬロボット漫画のことに終わるのみで、得るものは何もない。
私はたかはしさんからの返信メールを読んだあと、手塚治虫に関するお互いの見解のズレを認める文面には気づいたが、もはやそれを覆い尽くして余りあるたかはしさんの寛容に心を動かされた。

以下、返信文である。

ホーネット 様

いつもお世話になっております、「懐かし掲示板」の管理人のたかはしです。

メールをありがとうございます。
私がホーネットさんを怒らせたのであれば、心からお詫び申し下げます。

反論は入らないとのことですが、反論するつもりは毛頭ございません。
(反論する言葉も浮かびませんので)
正直に申せば、このたびの理解できない状況に遭遇してとまどっております。

> 私がいったい何を言いすぎたのか、いまもって理解に苦しみます。

私は、ホーネットさんが「言い過ぎた」とは申しておりませんし、
その様な意図もありませんが、もしそうとられるのであれば、
納得させる言葉が足らないのと、私の精神がおろかなのかもしれません。

カキコミされた内容に対して、なんら苦情も申し上げてはおりませんし、
また、何に対してそのようにお怒りなのかもわかりません。
私のそのような察しの悪い、稚拙な愚かさに対してのお怒りなのでしょうか?

> それらはすべて徒党を組み、又は衆をたのんだ袋だたきです。

ホーネットさんを袋叩きにした憶えもありませんし、
私はどなたとも徒党を組んではおりません。
そう感じられたのはこれも不徳の致すところです。

> 漫画家ふぜいにことごとく先生と言わねばならぬムードは異常世界にほかならず。

先生と言っているのは私だけで、友人同士でも「君」「さん」と言う程度で
申し上げているのです。
ホーネットさんに漫画家や映画監督、音楽家など全ての方に対して
「先生」というように強要も、お願いもいたしておりません。
まして、漫画家や映画監督、権力者に対しても媚びる気持ちもいっさいございません。

ただ、芸能人にしても、呼び捨てするのは失礼ですので、
「さん」などを付けるのは最低の礼儀かと思い付けているのです。

私は手塚治虫先生は尊敬しておりますが、崇拝はしておりません。
それは円谷英二監督、黒澤 明監督、長島茂雄監督など、
多くの方に対しての気持ちとまったく同じです。

> これでもし私に謝罪する度量があらば、私もあの書き込みに対する無礼は許容しますが

私の意図と違いホーネットさんに不愉快な思いをさせたのでしたなら、
ここに心から謝罪申し上げます。

> 友人曰く、「PC世界は所詮見知らぬ同士のお友達ごっこ。気にするな。笑い飛ばせ」。
> しかし、この不健康な世界のことで、被害者に置かれたまま、
> 「あはは」は無理な注文。

お友達のそのようないささか人間性をバカにした物言いもあんまりかと思いますが、
所詮は考え方の違いだと言われればおっしゃる通りです。

> お心を入れ替える時のみ、返信願いたく、その反対の時は無用。

心を入れ替えるというのは、正直どの様にふるまえとのことなのか理解できませんが、
少なくとも、ホーネットさんに限らず、多くのみなさまに対して
無礼にならないようにと、引き続き心がけさせていただきます。

また、繰り返しになりますが、
私がホーネットさんを怒らせたのであれば、心からお詫び申し下げます。
それは今、私の心を締め付けております。

自律神経の失調でしょうか、少々、めまいも起きております。
10年来の持病の高血圧もますます悪化しそうです。
少なくとも、ホーネットさんのメールが、私の体に変調をきたしたのは事実ですが、
これは身から出た錆と言うものです。

> さもなくば、コピーして我がHPとして、そのまま利用することをも辞さじ。

ホーネットさんのページですから、どうぞ、そのままご利用下さい。
「撤去せよ」とのご命令であれば、著作権者のホーネットさんのご意向に
従うより他にはありません。

ただ、しばしの間でも、ホーネットさんのページ作りをお手伝いさせていただきまし
たことは、本当に楽しい作業でした。

いろいろ勉強させていただき、ありがとうございました。
またお会いできることを期待して
これまでのお礼と、このたびのご無礼のお詫びを申し上げます。

ありがとうございました。


2002.10.5
誤字、脱字等お許し下さい。

たかはしよしひで
hop@cello.ocn.ne.jp

以上のメールを読み終わった時、私はすぐにたかはしさんへの謝罪メールを書く決心をした。
いよいよ、たかはしさんとのトラブルの件を書こうと思って、保存しておいた資料をさぐっていたら、思わぬ別のものが見つかった。
自らにウソをついていたことに気づかぬことに気づいて驚いた過去日記だった。

抜いてみるとこうある。
「・・全身性エリテマトーデスという難病のサイトを訪れ、だいぶ名が知れたころ、サイトの常連の気をほぐす意味で、当時の連れ合いの悪口を明らかにユーモアとわかるように書き込んだことがあった。

ややあって、猛烈な反論、いや、攻撃と言うべきレスを受けた。
ここに至って、この難病サイトに巣食う者共の甘えと、極度の排他性を感じてうんざりし、一切の弁解をせずに去った。

連れ合いも、つまらないものね、パソコンって、と、ポツリ言ったものだ・・・」
この連れ合いこそが夕子(仮名)だ。
この楽天日記は、2003年9月26日に書いているから、夕子との再会が同年暮れとのちに書いたのはウソだったことになる。

ただし、全く気づかなかったから、いわゆるウソではない。
さて、短期間に都合二件のサイトから追い出された私は、楽天日記開設の前、9月終わりごろだったか、たかはしよしひでさん主宰の「懐かし掲示板」を見つけて、だがこれまでの経緯があるから、用心して初書き込みをした。

私は過去に特撮をやっていてしかも、多くのジオラマを作っていたこともあって、いっぺんにたかはしさんから歓迎された。
そして、たかはしさんの提案により、これまで作ったジオラマ画像を掲載する新たなホームページ作成の提案を受けて、うれしくてならず、二つ返事でオーケーした。

今度はうまくいくかも知れないと期待していた。
当然掲示板にもひんぱんに書き込みをした。
ところが同年10月2日の書き込みに対して、たかはしさんから忠告を受けた。

彼には済まないが、私は未だにこれを己れに非ありとは思っていない。
たかはしさんの思い違いか、デビューまもない新参者の私へのベテランの余裕から来る、やや思い上がりのレスだと今でも断じている。

抜いてみる。タイトルは「手塚神話のタブー」
「・・漫画の神様と言われる手塚治虫氏ですが、例えばちばてつや氏が書いたような、テーマを一種類のスポーツに絞って、徹底的に描き通すというものを、寡聞にして存じません。

ブラックジャックなど、別テーマ中にちょこっとスポーツを扱ったものなら、いくつか見つかることでしょう。
実に、私が手塚漫画に共感を覚える一つは、そこにあります。
あらゆるスポーツが苦手で、大嫌いなのです。

スポーツ漫画だけは話題に出来ないのは、それゆえです。
スポーツ漫画も好きだというかたには、腹立たしい話でしょうが、極端に苦手だったのです。体育は苦痛でした。

アトムの女性的な一側面に屈折した思いを寄せるのも、手塚漫画にスポーツテーマなしということと、関係あるかもしれません」

これに対するたかはしさんのレス全文を抜く。
「ホーネットさん、漏れ聞くところによると、確かに手塚先生にはいろいろ仰天エピソードもおありのようですよ。

ですが、この「懐かし掲示板」は手塚先生に限らず、特定の作家や作品を批評するのが趣旨ではありませんので、今回の書き込み程度に押さえていただければ幸いです」

ここで、のちの、そして今の「懐かし掲示板」のことを書いておくが、私の控えめな書き込みに比べて、はるかに作家批評に満ちた書き込みだらけである。
ところが、私一人がたかはしさんから忠告を受けた。

私は転瞬激怒し、義絶を言い渡すメールをたかはしさんに送った。
ただし、多くの女に見られるように、怒りがさめぬうちに、怒りに任せて勇ましい文章のメールをすぐに送ることはしなかった。
「投書は一晩寝かせるべし。翌朝になったら、こんなもの送らなくて良かったと思うことが多いから」という古人の言葉があるから、私は一晩どころかしばしメール文を寝かせた。

以下が、私が送った反論メールである。日付は2002年10月5日。

バイク仲間の一人にうまいことを言われて、なるほどと思いましたが、正直「手塚云々」にすぐさまかみつく如き反応には失望致しました。
言われてみれば、なるほどあらゆる漫画家には、たかが漫画家ふぜいに対して過分ともいえる「先生」付きの、美辞麗句・世辞・追従の文言の羅列ばかりです。
私がいったい何を言いすぎたのか、いまもって理解に苦しみます。
こうしてみると、掲示板とは実に共産主義的な、言論の自由も何もない、気持ちの悪い世界だということがわかります。
私はこれで3件から、退くことになります。それらはすべて徒党を組み、又は衆をたのんだ袋だたきです。
これはパソコンのレベルを実に幼稚なものに堕さしめている元凶です。3件みな、同じ北朝鮮体質である。
漫画家ふぜいにことごとく先生と言わねばならぬムードは異常世界にほかならず。
又、特定の作家の批判のページでないと言いつつ、お世辞たらたらは、大歓迎というのでは、こんなもの、くだらぬお宝資料館にとどまって、全く哀れなり。
私の如き中庸な目で見ると、どの世界も汚いものの中に純粋な断片があり、虚飾の贅の中に、きたならしいはげたメッキの本質ありというのが、このしゃばということがわかるのです。
これでもし私に謝罪する度量があらば、私もあの書き込みに対する無礼は許容しますが、さもなくば、
これまでの私のコーナーを即日撤去いただきたいと願うものです。
万に一つ、私のコーナーが微力ながら接続件数に貢献しているとしたら、こんな不愉快なことはありません。処置はそちらのしたことであろうけれど、これまた乞われての我が厚意。
画像提供の手数も当然あったのです。
最後に、コーナー撤去の時は、返信無用に願いたいし、反論・報復メールも無用に願いたい。
友人曰く、「PC世界は所詮見知らぬ同士のお友達ごっこ。気にするな。笑い飛ばせ」。
しかし、この不健康な世界のことで、被害者に置かれたまま、「あはは」は無理な注文。
繰り返します。お心を入れ替える時のみ、返信願いたく、その反対の時は無用。そして、無論私のコーナーは撤去願いたい。さもなくば、コピーして我がHPとして、そのまま利用することをも辞さじ。
乱文失礼。

行変えしていないのは、いかりが持続した証左だ。
私はたいてい5,6行で行変えする。
これに対するたかはしさんの返信メール文は次回掲載する。
ここは、盟友たかはしさんにも知られていない場所である。
たかはしさんとは、パソコン交流始まってまもなく、義絶必至の出来事があった。

一度には書けないかも知れないから、その時は不定期も視野に入れて、連載する。
ところで、やはり本物の日記帳をつけていて良かった。
パソコンをいつ買ったかがどうやらわかったのである。

2001年、平成13年に買ったようだとわかった。ただし、はっきりした記録はないが、日記を読み返した結果の判断である。
このころ私はまだパソコンを利用しての交流のさじ加減がわからず、いろいろなサイトの掲示板を訪問した。

最も仰天したサイトがあった。記してみる。
膠原病という難病がある。ここを訪れた。
ここに集う人々ほどではないものの、私も神経症を早くから患って、まともなサラリーマン生活への自信がない大人となった。

このサイトにデビューしてしばらくは、私はまずまず歓迎された。
そこで皆の気をほぐすつもりで、実は楽天日記に登場させている仮名・夕子とのことを本人と相談した上で、書き込んだ。

つまり、私は楽天日記では、おととし暮れ近くに再会したことにしてあるが、あれも夕子と話し合った結果の創作であり、彼女とは、離婚後もたまに会っていた。

ウマが合うというのだろう。
さて、夕子と協議の結果、これならよしと文案が決まったところで、書き込みした。

長文なのでかいつまんで書く。なお、書き込み本文では夕子の提案で私たちは夫婦ということにしている。
「女房の悪口書けるのも、我が女房の悪口なれば、誹謗中傷なんでもオッケー。
家内めは、昭和初期に生まれる予定を間違ったんじゃないかと思うほど、偏屈者です。

家内にもあいさつさせたいところ、傲岸不遜、大胆不敵、傍若無人なる大無礼のため、私までが連座して、退出の運命となること必定です」

以上、書き込み文の順番も変えたが、主旨は原文を損なっていない。
これに対して、えどべりと名乗る京都の女が、しかも真っ赤な文字で、ところどころサイズを巨大にしてまで、凄まじい攻撃のレスを返した。

「ホーネットさん、少しおっしゃることに問題があるように思います。ここにカキコされるのは結構ですし、内容も自由ではあります。
しかし、ここは膠原病サイトであって、家族であったとしても、誹謗中傷(この文字巨大なり)の場ではありません。

見ている方でどれだけ気分を害される方がいらっしゃることか。
すでにオペレーターの元には苦情が来ています。
これ以上当サイトで他の方が気分を害されるようなカキコをされた場合は、オペレーターとしてしかるべき処置をとらせていただくことになりますので、ご容赦ください。2002年09月12日 23時43分15秒」

これを見て驚いたのはむしろ夕子だった。
彼女は声を上げて泣いた。無理も無い。文案は彼女が皆に楽しんでもらおうとの意思で、懸命に考えたものだったからだ。
「私があなたの妻も同然の間柄だから、これを一種の、のろけ話として、盛り上がるかとばかり期待していたのに・・」

夕子はそう言ってはまた泣いた。
私は好意がアダになってしまった彼女がふびんで、思い切り抱きしめた。
彼女もきつく私にしがみついて泣き続けた。

しばらくして私は言った。
「夕子。悪いことしちまった。ごめん。でもね、お前のせいじゃない。
あいつらは、難病を武器にして、思い上がっている。甘えてもいる。
これからは、俺も病気を武器にするような甘ったれは許さぬ。
いいか。くどいけど、お前が外柔内剛の優しい女ということは誰よりも、俺が一番知っている。

今夜はつらいだろうけど、な、酒でも飲んで憂さ晴らししろよ。俺は余り飲めないけど、カンビールぐらい付き合うぞ。
それからな、俺はもう少しパソコンとやらをやってみるがな、お前のいわれなき屈辱の万分の一でも晴らすために、今後俺の書き込みにかみついて来るバカがいたら、決闘覚悟で臨んでやる」

この一件があって以来、夕子はパソコンをしばらくやめてしまった。
すでに何百項目に及ぶ技術を身につけて、見事な装飾の自分のホームページも立ち上げていて、私との交際は隠し、その美形の胸像写真も掲載していたから、多くの男の常連が書き込みに集まったが、このサイトも閉鎖し、ずっとサイト立ち上げはしなかった。

去年押し詰まった頃、ようやく形ばかり楽天日記を開設したのには、こんな事情があった。
私は夕子のために、パソコンサイトに巣食う多くのバカどもにケンカを売る計画で、同年九月終わりごろ、たかはしさん主宰の「懐かし掲示板」を見つけ、ここにデビューした。

話が前後するが、膠原病サイトに行く前、あるバイクツーリングクラブにいた。だが、「実は私は徒党を組むツーリングは嫌いです」と書いたとたんに、追い出しを食った。
これにはわけがあり、当時バイク趣味で知り合ったある男が、仲間とのトラブルで、やや気落ちしていたのに感じて、慰めるつもりが、筆がすべったのだった。

それにしても、掲示板とは、居心地の悪いところばかりだった。
特にツーリング嫌いと書いただけで、総スカンを食わす奴らの心の狭さにがっかりした。
担任、瀬戸先生のまま、兄は中学二年になった。
そして、4月6日、土曜日の学級委員選挙で、学級委員長に選ばれている。
今では「立候補式」といって、自ら名乗りをあげる方式もあるようだが、兄の頃は純粋に人気投票である。

単なるガリ勉では、役員に選抜されるほどの人気者になるとは限らない。
と言って、単に人気があるだけで選ばれる者も多いから、私は実際三年間無役だった経験からも、実はこのクラス委員選挙を嫌悪している。

兄は名実共にトップクラスの中学生だったからこそ、みんなに好かれて結果、委員長の座を獲得したのだと察する。
兄は私と違って、スポーツにも充分な興味をもっていた。
次の如くである。

5月12日(日)
昼ごろからテレビで「毎日マラソン」を見た。今日は、どうしたことか、2月17日の別府マラソンで世界記録の2時間15分15秒8を出した、寺沢選手が不調で、第5位に落ちてしまった。

なお、私は昔も今もスポーツ大嫌いなので、寺沢なぞという名前は聞いたこともない。

犬好きの兄の好ましい一面が表われている日記もある。

6月21日(金)
学校の帰り、道ばたで子犬をなでていたら生前のhappyを思い出し、ちょっと悲しくなった。でも、もう絶対にかわないとあの時かたくちかったのだから、あきらめ、口笛を吹きながら帰った。

実際は既に楽天日記に掲載しているように、超巨大犬グレードデンのジョイをずっとのちに飼うこととなったが、ハッピーはメスで、多産のハッピーの子供を処分したつらい記憶が教訓となり、ジョイはオスなので、飼うこととなった。

さて、お兄ちゃん、今夜はこのへんで一旦、とめるね。

亡兄を偲ぶ、つづき

2004年12月28日
私は精神年齢は幼いとよく言われるが、別の精神年齢は、むしろとうの昔に老化している。

兄を偲ぶ日記を続ける。
兄、中一の暮れ、12月6日の日記から始める。

12月6日 木曜日
今日、弟のとっている雑誌が来た。ふろくにはレコードばんがついていて、軍艦マーチ等その他三曲がふきこんであった。

これを今までのふろくと比かくしてみると、大分ごう華になっている。フィルムレコードという紙のレコードばんが発明されたのもあるが、それにしても本のふろくは進歩したといえる。

12月8日 土曜日
中学時代新年号が来た。「中学学習日記」という日記帳がついてきたので、来年から、これで日記をつけようと思う。

これに対する瀬戸先生の朱書きの指導の文がある。

「よかったね。大人になっていい思い出の記録になる」

残念ながら兄は、この記録を再び確認することなく逝ってしまった。

次に昭和38年元旦の兄の日記から。

1月1日(火) 元旦
テレビでもラジオでも、あけましておめでとうございます。本当におめでたいけさ、あまいおとそをグッとひといきにのみほすと、去年までのつかれがいっぺんにふっとんだ様な気持の良さ。

いかにも健康な中学生の正月の描写である。我が家にも楽しい時期があったのかと思いたくなるほどだ。

いや、この頃の兄の心身が健康だったのである。心身共に健康というのは、良く学び良く遊べを実践したということだ。

この3学期最後の学年末テストは確か学年一番になったのだと記憶する。
このような日記がある。

3月4日(月)
学年末テストを返してもらって、合計点761点になった。これは、今までの最高だ。あと、残っているのは美術だけだが、美術が80点以上ならば、841点になる。早く美術の点数が知りたい。

この8科目の段階で既に761点。平均点実に95点余である。
少し疲れた。お兄ちゃん、悪いけど、ここで一休みするね。
十二月二十五日、土曜日づけの楽天日記では、300アクセスを軽く超えた。だが私の日記は時に人か鬼かと思わせる如き憎まれ口をきくし、絶えて久しいか、全く絶えた古人の言葉をあやつるから、近寄りがたいのかと察する。

ただし、お世話になっている想科良次さんこと、山形のたかはしよしひでさんは別格である。
彼の人柄と文章には大人の品格がある。
彼とはかなうならば、いずれ直接会って、まじめな話をしたいと願っている。

彼はパソコン掲示板で私が最後にケンカを売ってかみつき、それでいて、優にやさしい返事のメールをいただいたことから、未だに交流が続いている、得がたい人格者である。

実に昭和27年生まれの同い年。こうも大差があるかと、内心忸怩たるものがあるが、彼は出自経歴を明かさず、それでいて個人交流のメールでは、居所・電話番号すべてを明かしてなお、けんそんしているから、世の中は広いことを学ばせてもらった人だ。

いずれこの場所に、私が彼に送った読むに堪えぬケンカメールを書き記してみるが、楽天日記はガラスばりの感じがいやだ。
ゆえに私は開設当初の平均アクセス26,7を腹立たしく思い、ある者とはかって、アクセス増加計画を立ち上げて、見事とまではゆかぬものの、当初を信じられぬほどのアクセスをかせいだ。

なに、単なるゲーム感覚だ。ただし、卑劣な手段でアクセスだけかせぐ如きは一切やっていない。
私のアクセス増加計画そのものを卑劣と言えばそうなのだが、これは書いた通り、チャラチャラした飾り物が多すぎて、更に携帯電話感覚でしか文章がつづれぬ愚か者どもをあざむく目的があったから、少しは名分が立つと、我れともう一人ながら、納得している。

楽天日記につづった文面は、架空と現実の物語とがないまぜになっている。
効を奏したか、アクセスが増えたが、書き込みはなきに等しい。
ただし、たかはしさんが読んでくれている。彼はコメントをほとんどしない。これも気が楽だ。

更にたかはしさんは、日記に関して寡作だ。私は彼のこんな一面が好きだ。時々、実は楽天日記から去るのかと思うが、たまに書く。うぬぼれでなければ、私が開設し継続したことへの義理を続けてくれているのだと察する。
彼の本分は「懐かし掲示板」にある。
彼のレスにかなう者は楽天日記には一人もいない。私もその一人だ。

敵を作らぬ人だ。この浮世には実は彼のような人格が必要だ。
反対にどこがいいのか、書き込みがやたらに集まるサイトがある。
日記はつまらぬ。ここが理解出来ぬところだ。

私はわざとリンクしている。愚かな日記のどこがいいのかとさぐるつもりだったが、書き込み常連もまたバカぞろいとわかってから、書き込みにいくのをやめた。

きれいごとを書きすぎる。
以前「水はすべてを知っている」という日記があった。
ヘビメタとかいうロックを聞かせた水の結晶はみにくく崩れて、サザンオールスターズ・ユーミンを聞かせた結晶は整って美しいと書いた本のことを絶賛していたから、この女も凡夫凡婦の一人と判明した。

上二人の曲をそして人物を私は嫌悪している。
特にユーミンは、一本調子で抑揚のない歌を歌うからむしずが走る。
更にこの女は、古賀政男氏が亡くなった時、「おじさんの歌はしーらない」と、無礼極まる態度だったから、これでこの女への嫌悪は確定した。

楽天日記。相も変わらず烏合の衆が、拙い文字を羅列して、なぜか常連同士、友だちごっこを続けているから、私はあいそが尽きているが、私は私なりの流儀で、がんこにバカどもの中にまざって、一人我が道をゆくを通すつもりだ。

少なくも、たかはしさんとの交流が続くあいだは、不遜ながら、彼のためにも書く。アップしてみるが推敲せず。
きれいごと日記に集まる常連のコメントを見ると、日記内容を理解していないことがわかる。

だから、コメントはせいぜい三行だ。三行でコメントは書けない。
私はコメントの字数制限の数こそが、コラムたるにふさわしいものだとつとに思っている。
だが三行は何も書けぬ。それでも読んだフリをしなければならぬから、たとえばこんなだ。

「すてきな日記に、ハートが暖まりました。
とってもいいお話をありがとう」

これなら、誰のどんな文にも使えるから、ハンコのようなものだ。
心がこもっていないことが多分本人にも知れているはずだが、本人も気づかぬフリをして、レスを書くから、パソコン交流は友達ごっこだと断ずるのほかない。

我が国の文化衰退の元凶は携帯電話とパソコンにあるとみている。
偽善はある程度必要だが、ほどがある。
きれいごとばかりを書くな。
本心を書け。この世の無常を嘆け、いかれと言いたい。

兄を偲ぶ文は、こののちしばらく続ける。
兄のことを偲ぶ文面をつづる前に書いておくことがある。
77になる母が、このところめまいの発作をややひんぱんに起こすようになった。

私の夜更かしは決してほめられたことではないが、夜更かししていると、体調を崩した母が二階に上がって来て、薬などの処置を訴えることが多くなったから、夜更かしも仕方ないと思っている。

何より、持病に苦しむ母をほっておけぬ。
我が母は、私たち子供にしつけで厳しいところを全く見せなかった。
ただ甘やかしただけと言われても仕方ないが、ともかく優にやさしい母だった。

母の人生は、結婚し出産して以後、私たち子供の成長を見守り案じ楽しむものとなった。母はそれを少しも疑わず、己れの人生は子の人生とみなすようなった。

私はこの母から生まれて良かったと思っている。
母から大声で怒鳴られ、叱責されたことは一度もない。
父が性格に問題があったぶん、私たち兄弟は、母の惜しみない愛情に支えられてきた。

この母を邪険に扱うことは我が罪業となる。
成らば、サイパンへは母を連れて行きたかった。
母もまた飛行機を恐れるタチだから是非も無い。

一旦アップする。

昨晩九時過ぎ、母と上と下に別れてしばらく、私はパソコンに向かっていた。この日午後一時から冬期講習があり、休憩時間を入れても、優に三時間ほどサービス授業をしたから、いささか疲れていた。

そろそろ寝床につこうと思い、便所で用足ししていると、母が階段を上がって来た。
単に寝つきが悪く、よもやまの話をしに上がって来ることがあるが、長年のカンで、便所の戸をへだてていても、母が具合が悪くて来たことが察しられた。

父は母の病に頓着ない。病状を未だに理解しようとしない。
ゆえに母は私を頼って来る。
常備の薬を服用させ、吐き気止めの坐薬を入れさせて、既に数時間経ったが、容態はわからぬ。

さて、兄を偲ぶ日記のつづきだ。
私が今日細々ながら糊口していけるのは兄の薫陶のおかげである。
兄は学習のノウハウを的確に教えてくれた。兄がいなかったら私は鈍才のままだった。

兄は幼いころから祖父の薫陶を受けて情緒豊かな人間に成長した。
8月6日に移る。

8月6日 日曜日

兄の中学時代の日記帳が手許にずっとあった。瀬戸先生に受け持たれた中一初めから中二の九月まで書いてある貴重な遺品である。
もしかするとお兄ちゃん本人は忘れていたかもしれないが、こうしてしっかりと少年時代の記録が残っているのである。

さすがに生前は控えていたが、今初めて拾い読みをしてみると、懐かしさと共に、既に中一のころから非凡な才能をもっていたお兄ちゃんの文章表現力への驚きの念が改めてわきおこって来るのである。

「文章は常に平明であるべし」と言っていたお兄ちゃんの信念が見事に中学時代の日記に表われているのを目の当たり見ることができる。
この日記は瀬戸先生が課した宿題なので、提出用の内容になっている面もあるだろう。だからといって当時のお兄ちゃんの生活をやたらと潤色しているとは思えぬほど、簡潔明瞭かつ自然に往時の様子をつづってある。

兄が中一のとき私は小四である。私がとうに忘れたことが、兄の日記にきちんと記されていて新鮮だった。
つづく
平成7年8月5日の日記から。

兄の発病がいつかはわからないが、以前の会社「陶陶酒」にいたころ、毎年定期健診をやっていたとしたら、少なくも昭和62年の年末までは健康体だったわけだ。

翌、昭和63年のいつかに発病したことになる。
この63年夏、私は兄一家の招きで、軽井沢の別荘に遊びにいった。
このころの兄の自家用車はグレーのアコードだった。

観光地の一つ、鬼押し出しへいく途中、兄が80キロほどの速度で軽快に走らせながら、アコードの性能の話や、その他いろいろな話をしてくれたのが印象に残っている。

この軽井沢の休暇の最後の晩、私と兄は思想のことでちょっとした口論をしてしまったが、兄の話し方はあくまで穏やかで理路整然とし、私のほうがかっかしてしまったほどだった。

人間が出来ている、いや、兄はずいぶん温厚に変わったと痛感した経験でもあった。
学生時代までなら、口論して兄にさからったら、勝ち目はないどころか、冷たくされ、しばらく口をきいてもらえなくなったものだ。

それがこの軽井沢最後の晩、尽きぬ議論にまとまりがつくはずもなく、兄はポツリ言った。「もう遅いから、寝ようや」
翌朝、声をかけたのは兄だった。
「夕べはよく眠れたか」
眠れたと答えると、兄はそうかよかったという意味の言葉を返してくれた。

これらいちいちが、今思い出して、兄への追慕の情をかきたてて、やりきれぬ悲しみに包まれる。
あのころから、さらに兄は私の独身人生のただ一人の支えだった。

この年、昭和63年暮れの健康診断で兄の発病が判明した。
私が筑波大学に急行したのは翌平成元年の冬二月ごろだったか。
検査のため一時的に大学病院に入院していた兄が、私を迎えてくれた時の姿が目に焼きついている。

ところが私はその時の兄の服装をよく覚えていない。今で言うジャージのような軽装だったか ?
無論兄はまだまだ元気そのもので、しかも私たちを心配させまいとしてか、あるいは自他ともにこのような忌まわしき病を信じたくない気持ちも手伝ってか、「白血病なんかじゃないよ。おふくろも本当に心配性だなあ。俺のはな、単に白血球が増える病気なんだよ。だからそんなに深刻なものじゃないんだ。心配ない」と、しきりに言っていた。

白血病でなくて単に白血球が増える病気などというものがあるはずがない。白血病は死病であり、この点ガンと同じか、場合によってはもっと残酷だ。ずいぶんだめになってしまう人も多いと聞く。
ある医大生は罹病を知ってまもなく自殺した話もあった。

だが兄は自らを励まし、私たち周りのものを励まし、病気を知らされてから実に六年余の長きにわたって、まともな社会生活をやり通した。
強い精神力などとひとことで形容できる程度のものではない。

我々の想像を絶する兄の気力というものがある。それを六年余のあいだ、私たちは目の当たり見た。
兄はひとときもとどまったり休んだりということがなかった。

いつ死が迫りくるか全く目に見えない。その中で遂に最後まで普通の社会人としての生活をやり通した。
同じく平成7年8月4日の日記から。

再び時間をさかのぼる。
7月23日の日曜夜は、寿司をとって食べた。男ばかり三人の子は落ち着きがなく、特に食事にがつがつして、私はこの子らが嫌いだった。
寿司は兄の大好物だった。

だがこの夜は、「いいよ、いいよ、みんな食べなさい」と、子らにがつがつ食べさせた。
兄のお気に入りはあるいは一つも残らなかったかも知れない。

この日曜日、兄は何ものかを悟っていたのではないか。
この前の週の水曜日、風邪をひいた兄は医院へ行き、血液をとられてしまった。
更に医師が脾臓がはれていることを告げた。言われなくとも兄自身がベルギー以来、覚悟していたことだった。

急性転化がいよいよ進んだことを意味していた。
この水曜日、7月19日、私は日記に体調芳しからずと書いている。
さすがにこの時、兄がまもなく容態急変して死ぬなぞ予想だにしなかったから、私の不調は塾のストレスと察しられる。

脾臓がはれた話に戻る。この時の結果は土曜、7月22日に出ると医師から告げられたが、さすがの兄も結果を聞きたくなかった。
妻に代わりに行って聞いてきてくれと頼んだきりだった。

しかも、この土曜日には、例によって我が家へ電話をかけてきてくれている。
このころ、我が家は父が原因の家庭内不和の中にあった。
父は人の寝室に入るとき、ノックもせずにどかどかと入って来る。
この日の午後、夕方からの塾の授業に備えて昼寝をしようとベッドに横になっているところへ、父がいきなりドアをあけた。

私は電話、それも兄からの電話を告げに来たのだとは知るよしもなく、狸寝入りを決め込んだら、父は察して去った。
我が家はこんな家庭だ。既に後悔先に立たず。
この時、家の中が普通だったら、私は兄との最後の電話が出来た。

母同様、私も兄弟を失って、やがては天涯孤独の身である。
兄の存在の大きさを今さらながらに思い知る。
ほとんどは顔を見ることのかなわぬ富士市と土浦市の距離で、兄はひんぱんに電話をかけてくれた。

意志の疎通の出来る唯一の相手が兄だった。
ほかの者たちは知らぬが、赤の他人にこれだけ気心知れた者はいない。
だから私は友人を必要とせぬ。

気心知れた異性もいない。
兄は本当によく電話をくれた。兄からの電話は初めからひんぱんだったわけではない。

私の察するところ、兄は妻にいくらか飽いていた。
そのころからひんぱんに電話するようになったと察する。
兄からの電話がたくさんかかり始めたころは、うれしくてならなかった。
学生時代までは時に恐い存在だった兄が、友の如く感じられた。兄とこんなに心を通わせた話が出来たことに気がついた喜びを味わった。

「ひろ、いるか ? 」これが兄の口癖だった。
たいてい初め母と話すが、必ずと言っていいほど、私と代わって、よもやまの話をした。
つづく。

兄への追慕の念続き

2004年12月21日
きのうの日記のつづき。つまり平成7年8月4日の日記帳のつづき。

兄は初め大部屋の一つのベッドにいた。兄嫁の気の利かぬところだった。急ぎ母が機転を利かせて交渉、すぐに豪華ホテルの一室の如き個室に移ったが、無論そこはむなしい部屋だった。

兄が臨終を迎えるのは時間の問題だった。既に幼若白血球数十数万個。
兄は時々眼を閉じたまま起き上がると、激しく嘔吐して胆汁のように濃い茶色のどろどろしたものを吐いた。都合二回に及んだが、二回目は口からだけでなく、鼻からも出した。この洗面器は私が洗った。

翌、水曜日まで荒い呼吸が続いた。たまりかねた私は看護婦さんに頼んでやや強い鎮静剤を注射してもらった。
本心は早く兄を楽にさせてやりたい気持ちからだった。

この鎮静剤を注射して以後、兄の動きは次第に緩慢になっていったが、致死量ほどの注射をしたわけでもあるまい。
たまたま兄の容態がそうなったと思える。

兄は前日、火曜の朝、既に右半身不随となっていたが、鎮静剤注射ののち、次第に左に及び、それまでしきりに動かしていた左手・左足の動きも止まり、とうとう荒い呼吸だけを繰り返すこととなり、やがて最後の幾呼吸かしたあと、突然吐いた息を吸わなくなった。絶命の瞬間だった。7月26日、水曜日、午後2時25分、兄臨終。

それまでじっと見守っていた私たち皆がいっせいに泣き声を上げた。
父がひとこと「則和ッ ! 」と言って絶句したのを覚えている。
私はもはや生きる望みを瞬時に失っていたから、「お兄ちゃんッ ! 」と短く叫んで、しばし泣いているのみだった。

母は、ずっと兄の手を握りしめていたが、この時、最もその泣く様子が悲しげで哀れだった。さかさまが起きたのだった。
70近くになって、長男に先に逝かれた母の心中、察することさえ出来なかった。

少し時間をさかのぼる。7月23日、日曜日には、長男の友だちがおおぜい遊びに来ていた。彼らを兄がカメラで撮っていた。更に兄は庭に一輪咲いた花をながめて「きれいだなあ」とつぶやき、これも写真に撮った。

死が間近に迫ると、人は皆仏様のようになることを知らされた。
そして更に、音信を断っていた者たちにていねいな手紙を書き、菓子折りと共に送っていた。

この日曜日に兄が写した写真を収めたアルバムは茶の間にあるが、公表日記の場には掲載出来ない。
兄の死は、仲の悪い父方の親類にも一切知らせていない。母のせめてもの抵抗と察する。理解するしないではない。母の悲しみを思いやると、何も意見なぞ出来ようものか。

7月24日、月曜日、兄嫁は兄に少し休んだらどうかと思いやりの言葉をかけた。
兄は答えた。「俺が働かなくて、誰がこの家を守るのだよ。な、いいから心配するな」と兄嫁の心遣いに応えた。

しかし、その夜帰宅した兄は、妻に向かってこう言った。
「もう仕事が出来ない。済まない・・」
兄は妻に詫びた。兄嫁の話から察するに、この時脳内に変化が起きていた。
まともな食事をとろうという食欲は、もはや起こらず、桃の缶詰とアイスクリームを食べたが、このアイスモナカの名前を既に言えなくなっていた。

「ほら、あれだよ・・あのふかふかしたやつだよ、ふかふかの・・」
これだけ言うのが精一杯だった。
妻が察してアイスモナカを与えたということだった。

多分、この日出社して、兄は自分の脳に異変を感じた。仕事は満足に出来なかったろう。その時の兄の気持ちを想像すると、やりきれない気持ちになる。

今にして思うが、ろくでなしの私が死んで、兄のような価値ある人が、もっと生き続けて、家族を養い、共々苦楽を分かち合って、明け暮れに、いそしめば良かった。
私は生きる価値のない人間だ。

ただ、今でも私がこのことを言うと、母は決まって「何をバカなことを言うのだい」と戒めてくれる。ありがたいが、私が代わりになれば良かった。ただし、白血病と共に生きた兄と同じことは出来ない。
バイクで路上横死でもしていれば楽だったかも知れない。
つづく。
死んだ人のことをいつまで悔やんでは、亡き人も浮かばれぬというが、いっぽうで、悲しみいえぬうちは、いつでも泣きたいだけ泣くがよいと、これはアメリカの関係団体の意見である。

私はこれを支持する。心行くまで故人への思いを涙に託して泣きとおすこと、また故人への供養にもなるという主張だ。

ここにアメリカ人の偉大さを感ずる。
いかにも死んだ人は心の中にいつまでも生きている。ゆえに、思い出しては泣くのだ。

この日記文、知る人へのこれ見よがしになることだけを恐れる以外は、兄への偽りなき思いを存分につづる。

これからしばらくのあいだ、楽天日記は手抜きし、本物の日記帳から、兄のことをつづった箇所を抜粋要約してみる。

兄が我が家を最後に訪れたのは、平成7年(1995)五月の連休中だった。
おぼれる者はわらをもつかむのたとえ通りか、妻が新興宗教に入信し、兄もわざと感化されるようにこれに入ったが、つかの間で、兄自身が怪しさをつとに感じていて、結果ここを去った。

私はイカサマとは言えなかった。
妻は更に別の霊能力者を訪ね、兄に心霊治療を受けさせたが、なぜか一時的に体調すこぶる良くなり、この連休に来た時は「俺、治った」と告げたが、私は精一杯兄に共感するフリをした。

イカサマだよとはとても言えなかった。
兄はわけあって転職し、直後社命により研修にベルギーへと飛んだが、現地で急性転化、兄自身がこれを知ったはずだ。成田出発は5月7日だった。

不吉の報せか、翌日私はメニエル症の目が回る症状をこの夜中に起こした。
6月5日、兄帰国。6月17日、帰国後、体調芳しからず、両親が土浦へ見舞いに行った。元気な兄との今生の別れだった。

私はこのことに神経を参らせ始めていた。兄あってこその私の人生。兄なくして、何が楽しいか。
何のとりえもない私に、結果として塾という糊口の道をもたらしてくれたのは、父とも兄とも慕い尊敬した兄だった。

日記は8月4日へ飛ぶ。

8月4日 金曜日
兄が、お兄ちゃんが死んだ。結局白血病が何も治ってなどいなかった。
7月25日、火曜日の午前中に容態急変の知らせを受けて兄の病院にかけつけた時は、既に意識もうろうとした状態で、呼びかけに若干の反応はあったものの、言語能力を失っていた。

不定期かも知れぬが、この日記、しばし続ける。

去年の日記帳から

2004年12月19日
本物の日記をつけていることは書いたが、ではどんなことをつづっているか、書いてみる。

皇紀2663年
平成15年(2003)
1月8日(水)

兄の分 雑煮一杯 よそらんと わんを持ちかけ 苦笑せる母 (同日夕刻)

4月28日(月) 午前3時

きたる5月4日のクラブツーリング参加意志表明をしたが、我が脳中は、いささか、うつうつたる気分が支配している。

又、パソコン上に日記を開設したが、こちらは見られることを意識してか、毎日書いている。

本来の日記ときたら、このざまである。
手書きのおっくうさがそうさせるにしても、パソコン日記とは大差がある。人との交流が全くないわけではない。

以上。
このツーリングで、意外にも好みのタイプの子とやや意気投合し、予想以上に楽しいツーリングとなった。

このことは前にも「さらば愛しき女性ライダーよ」と結んだが、無論楽天日記には書けない。

未だに画像を保存してあるが、本人は既にクラブをやめ、静岡のどこかに衣食しているか、あるいはポツリもらしていたように決意して結婚したかも知れない。

世間に「人見知り」しない美形の女がいることを知った経験だった。
私は一目ぼれをしない体質だ。

この子とは前月四月のツーリングが初対面だが、顔立ちの整った子だとの印象くらいだった。

ただとにかく人見知りしない。計十人ほどの中の紅一点をものともせず、自然に溶け込んでひとときを明るくした。

そして五月、この子をあっさりと奪い去る強敵が都合で不参加だった。
ただし、私は何も考えてはいなかった。

年のせいとしか思えぬ。
一番目の目的地へついた時、自然デジカメのシャッターをその子に向けておろしていた。

次の目的地は食事も兼ねていた。
ここで我れにもあらず、容姿容貌礼賛の嵐を見舞った。だが自然にだ。

何と言ったか記憶にないが、女の年齢を35と聞いたのがきっかけだったような気がする。
35ならトウが立つ年齢だ。「25,6ぐらいにしか見えないよ。ルックス、スタイル抜群だね。ロングヘアーがお似合いだよ。あ、その髪の毛、少し茶がかかってみえるけど、ひょっとして茶髪 ? 」

などと連発したようだ。とたんに女はけらけら笑い転げた。これで当日のお相手は自分だとなぜか悟れた。
ほとんど一緒に肩を並べて歩いた。

更に「その美形でせっかくバイク乗って来たんだ、もったいない。モデルみたいだから、写真撮ろうよ」と誘うと、気軽にオーケー、ポーズ取らせて、5,6枚は撮ったか。最後の一枚を覚えている。ニックネームを呼んで、バイクにまたがらせ、顔だけこちらを振り向かせてほほえませ、撮った。やや暗く撮れていることがあとからわかり、やや残念。

帰りも国道一号バイパスが一緒だった。やがて私は富士東インターで降り、ここで合図をして、手を大きく振ると、女も振り返りつつ、手を振って返した。

これが別れと思った。彼女のバイクはホンダCB400Vテックといういいバイク。私とほとんど変わらぬ長身ではあるが女なればきゃしゃだった。
それでいてこの400ccを巧みに扱って、気さくなところを見せて、終始飽きさせなかった。

ツーリングで知り合うと、メールアドレスを簡単に告げてくれるようだ。
まもなく、「先日の写真を送って下さいな」とのメールが届いた。
私は初め、添付メールとして画像を送ったが、のち気は心と、現像に出して、鮮明写真をそろえ、当時のバイク仲間に託して去った。

それゆえ、手元に女の写真が保存してある。
以後、お互い音信がない。
結婚すると言っていたから、あるいはしたかも知れない。

下心なきつかの間の出会いと別れだったが、女は私なぞ元々眼中になかったから、これは気が楽だ。

拙き短歌、別荘篇

2004年12月18日
「こら夏子 winter star じゃわからぬぞ 音楽聴いたら 涙が出たぞっ」

楽天日記にここまで書けぬ。
亡き父上を知るはずもない私が失礼なこととは思ったが、さぞ娘を可愛がったことだろう。その可愛がり方、一方(ひとかた)ならなかったに違いない。

更に差し出たことながら、父上、娘さんはどこに放り出されても立派に生きる術(すべ)と力を備えて磐石です。
娘さんの以前の日記に、ほほえましいかつての日常の風景を思い浮かべたことがあります。

最後に失礼ながら、これを私なりにユーモア仕立ての短歌にしてみました。
天国で、ご不快かどうかこれも知るべくもありませんが、在りし日のご家族の姿をほうふつとさせつつ、ざれごとを書かせていただきます。

「こら夏子 水着で洗車は 何事か 近所の目もある すぐやめなさい」

もう娘さんは、私が如き50男に対しても、父親という目ではなく、対等に交流し且つ節度を守れるすばらしい大人のレディに成長なさっています。

あとは、良縁を得て、実家の母上さまをも安心させて上げることが、最大の親孝行と察します。
娘さんに旅行のこと初め様々にお世話になっている身として、僭越極まることながら、改めてご冥福をお祈り致します。

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