080915

午前九時ごろオムツ交換。尿の色さほど黄色くはなし。便臭ややあり、手ぬぐいでふきとる。
母を起こして水100cc余りを飲ませ、おいしそうに飲む。

ついでに別の手ぬぐいを湯でぬらして、母の背中などをふく。気持ちいいとの感想を聞いて安心。

水をたっぷり飲んだせいか、またまだ九時に起きたせいか、再び横になりたいと言うので、母を寝かせる。
「じょくそう」側つまり右を下にするが痛くないと言うのでそのままにすると、まもなく寝息を立て始める。

やがて目がさめる。眠っていた時間わからず。30分近くか。
検温。6度弱。二度はかるも同じ。熱は目下のところなしとみた。
脈拍二回はかる。二回とも67回/分。

母には済まないが、記録するため二階へゆくと言って、ここへ来ているが、このあと少し休むつもりである。
父は本当の介護をこの何年かやっていないと判断。

ただ食事のしたくと、命令的な管理、そばにいても、自分もグーグー眠るだけだったと判断。
何より暑い時期のクーラー活用ゼロが最悪の処置。自分に合わせた似非介護なり。

寝不足がハッキリ出て、母の隣で横になったまま、眠りこけてしまい、午後一時過ぎ、父が敬老の日のまんじゅうの小粒のもの二つとカルピスを母に与えてくれたおかげで、母は昼まったく抜きでなくなる。
全く面目なし。

ただし、二階の自室のベッドに横になっても眠れず。

・・・・・・・・・・

夜6時過ぎ、夕食。父のいつものおかゆである。私の目下の不安は、母が外で何らかの食事を口にする時、我が家での食事のようにゆったりした気持ちで食べられるかどうかということだ。

どんなに善美を施したサービスであろうと、我が家はある意味で閉鎖的傾向を持つ。これが今の母となるとさらにどうかという不安だ。
母は自由な意志で受け入れまたは断わることがかなわないから、少々の無理な食事を断われぬかも知れないのだ。

田中クリニックを私は擁護する立場で父に対して来たが、現に入院5日目つまり退院の日も、病院食はほとんど受け付けなかったのに対し、帰宅したその日の夕食のおかゆをずいぶん食べて腹におさめている。

田中クリニックでは一口食べれば良いほうだったが、退院したこの夜、さじに軽く五杯ほどは食べ、さらにお茶なども飲んだ。

前後するが記録しておく。
午後三時ごろ検温。6度3分。脈拍は4時へかけてたびたび測ったので推移を記録する。
78→73→67。

さらに前後するが。午後三時ごろ氷枕をかえ、お茶を飲む。
のちまもなく寝息を立てる。なお、14日、日曜日朝のことを書き忘れたので記録しておくと、このオムツ交換の時、むくみが右足にも出ていると確認。

さて15日、月曜日に戻る。
この日は午前中から夕方へかけてよく眠ったようだ。
ただし、目が覚めると、しばらくして必ず身体のどこかが痛いと訴えるが、具合を問うと「仕方ないねえもう」と、私などよりしっかりした己れの容態への姿勢である。

夕食、さじにおかゆ9杯、茶わんに約半分。この量だけは病院食をしのいでいる。
のち、歯磨き。その後、眠ったり起きて痛がったりのくり返しはいつも通り。
夕食時、ベッドに腰かけた時に右太もも「じょくそう」の皮がむけているのを確認、心配である。オムツの申請をためらっている。

やり方が悪いのかも知れないが、テープ式は「じょくそう」を覆うことが出来なかった。パッドにパンツをかぶせたほうが、患部を隠しやすいと思った。
ただ、オムツとパンツ一体型だと、Mサイズでは痛がった。

実は私見に過ぎぬが、この赤い腫れは床ずれの発展ではなく、硬いパンツで又ズレのようなものが出来かかる頃、痛がったのではないか。
結果は似たような傷となっても、出来方から異なる気がする。

パンツ一体型オムツをやめてパッド式にしてからしばらくは痛がらなかった。そして、こののち赤く腫れたという気がする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

16日、火曜日深夜三時になったが、火曜日人が来ることをも考え、母のオムツ交換などを深夜一時過ぎに起きて済ませた。
検温・脈拍は省く。

「じょくそう」の皮がむけたところは、ますます広くむけてきて、痛々しいが、痛みを問うと痛くないと言う。

便臭が気になるというより、少しでも通じがあるといいと思うので、腰のあたりの便臭をかぎながらオムツ交換する。

お尻の穴のまわりがぬれているので便かと思いきや、すぐ前のところからの尿のようなにおいである。

月曜日一日で水分量は1リットルには届かぬが、300ccは超えたと推測。
なお、私の生活リズムは相変わらず夜型。これは20年間にわたる家庭教師・塾の習慣ゆえ是非もなしと独断している。



母の容態記録

2008年9月14日 日常
母の容態記録080914日曜日

午前9時ごろ、オムツを替える。尿ややあり、一部黄色。便臭あるもはっきりわかるほどは出ず。食事も少なめでもあるし、依然便秘気味か。「じょくそう」消えず。
検温6度2分。体温計のあてかたがヘタか。ただしやや暑さを感じて室温28度のところクーラー27度設定、風力2で運転するとまもなく母が涼しがるので、クーラーを切る。

この時間、頃合をみて父が水分、簡単な流動食を与えに来るので、察して母をベッド上に起こし、腰かけさせる。母が背中がかゆいと言うので、もう一枚手ぬぐいをぬるま湯にぬらして、絞って背中を二度ふく。

コップの水・お茶あわせて100cc弱飲む。カロリーメイトアップル味少々食す。余りとらず。小食ゆえ無理もなしと感ずる。
脈拍70回/分。こののち日中へかけての変化が気になる。

午前はほぼいつも体温・脈拍共に落ち着いている。
このかんほぼ一時間。10時ごろ疲れたと言うので、横にする。
まもなく目がトロンとなる。

ただいま10時15分ごろなり。

午前の記録を書き終わると、そのまま母のベッドの横に枕を置いて私も寝転ぶ。
これで午後一時ごろまで眠ってしまう。

私が目覚めてのち、母はベッドに腰かけてコップの水100ccを飲み、カロリーメイト少しを食す。母を車椅子に乗せ、茶の間に連れてゆく。
午後二時ごろ検温。6度6分。脈拍70回/分。

一、二時間ほどテレビなどを見て過ごし、「疲れた」と言うので、ベッドへ帰る。
寝かせる時、痛がる。何とか「じょくそう」のないほうを下に、左を下に横たわる。

父が缶入りカロリーメイトココア味を持って来て、母はいくらか飲めた。
検温6度6分。脈拍77回/分。

夜七時ごろ夕食。いつもの通りおかゆに昆布、カレースープを混ぜたものを、茶碗にほぼ半分、さじで9杯食べる。また豆腐をさじにたっぷり二口食べる。

前後に水、お茶をたっぷり飲む。
食後すぐ父が歯磨き。口をゆすいだ水を飲んでしまった。
飲んで毒にはなるまい。

私はそのあとすぐ七時半ごろ二階へ上がって夕食。
母は今夜も特徴の一つの不眠が出ているか。
劇的回復はもちろん、症状軽減も望めない前途を予感せざるを得なくなって来たカンがある。

それでも、かつての母でないのがとてつもなくさびしい。
それを本人にわからせられるはずもないと承知でも、高齢が脳を弱める現実が憎い。

スポーツが運動が脳を老化から守るのが不満だ。人間を人間ならしめているのは知力であるはずだ。
脳を使うことも大事だとは言っても、もうろくを逃れるために何かのマニュアルに従わねばならぬのが現実なら、人間は人間らしく老いてゆくことを天から拒否されたも同然である。

この世は生きるに値せぬ「苦の娑婆」だ。
「♪ シャバダシャバダシャバダ、パヤッパー」なんちゃって。

・・・・・・・・・・・・・

日付けが替わったが、あれからにわかに睡魔が襲ってベッドで一時間余り眠りこけて目がさめる。
母が気になり階下へゆくと、案の定母は起きてあちこち動いていて、時々痛がる。

床ずれが次々出来るようにも見え、気が休まらない。
母にのどがかわいたかと問うとかわいてるよと答えるので、コップに100ccの水をくみ、氷を浮かしてストローで飲ませると、意外によく飲み、100ccはほぼ飲み干した。

そのあと暑いかと問うと暑いと答えるので室温29度を確認し、クーラー26度強風にしてしばらくたいてみると、母はまもなく寝息を立て始めた。
ほどなく目をあけるが、いくらかは眠った様子。

水分補給のおかげと思う。
母が目覚めたところで気にはなるが明け方は気温が下がると判断し、クーラーを切り、母にお腹のところくらいまでふとんをかけて二階へ引き上げて来た。


母の容態記録

2008年9月14日 日常
20080913

いつも通り午前8時過ぎに起床、階下の母の寝室にゆき、オムツを取り替える。
尿黄色で量は常の通り、ケア・マネージャーのかたが黄色は脱水気味で良くないとのこと。

便は依然余り出ず。便臭はある。ただし手ぬぐいでお尻を拭こうと鼻を近づけると、ニオイがはっきりあり、少しは出ていると思える。便秘気味かも知れない。
また、母のいずれかの手の指にもニオイがあることが少なくなく、多分あちこちをかいている時に、お尻に触れていると察しられる。

この朝、母を腰かけさせ、コップの水を飲ませた。この午前中だけで2,300ccほど飲ませた気がするが、これを記録している今は記憶にやや自信なし。
情けない記憶力なり。

検温せり。36度5分の平熱と思ったが、これも記憶自信なし。ただ、熱はなかったと記憶している。

母、水をいささか飲んだあと、横にしたら、たちまち寝息を立てて眠り始める。
この姿にやや安心せり。

午前中にケア・マネージャーの先生が「じょくそう」の報告にご心配下さって、訪ねたいとの電話あり。介護士のレディと共に来宅。
母の脈拍(80回/分)や荒い息遣い、血圧などから「脱水症状」と判断。

オムツを替えて下さる。午前中、水分をとったためか、既に黄色ではあるが、尿がやや出ていた。

田中クリニックに入院頼むもたちまち拒否さるる。感情的になっていると確信。
即座に先生が救急医療センターまで車椅子乗車設備の車で送って下さる。
医療と一口に言うが、これほど差があるものかと複雑になる。

センターでは緊急性と認めた点のみ診るとの理屈を並べる。
仕方なく左の太ももあたりの骨のレントゲン撮影、右太ももあたりの「じょくそう」の確認のみに絞って診断可との話をのむ。

この二点異常なしと告げらるるも、電話の時、先生は医師の知識不足を指摘。
我れ、先生の「危険性あり」との忠告に正確さを感ずる。

夕方になって再び先生の車で自宅まで私と母は送っていただく。
あわただしかったとは言い訳になるが、ともかく先生にお礼を申し上げて、この日は失礼し、すぐに母に車椅子のまま夕食をとらせる。カロリーメイト少々に、おかゆをさじに9杯たっぷり食べる。間でお茶を飲ませてのどを潤し、さらに豆腐を二口ほど食べさせる。

このあと、母を何時間ぶりかでベッドに寝かせる。
疲れたところへ無事、食事をとれたためか、しばらく寝息を立てて、眠る。

この13日土曜日は塾があったので、そのかんのことはわからず。父に聞き忘れたのは怠慢なるか。
塾終了後母の様子を見にゆくと、母はいつもの通り目をあけて、押入れを見つめている。

この時、今までとは反対に左を下にして寝かせていた。だが、しばらくすると「じょくそう」のある右側の太ももあたりが痛いと訴える。
先生の指摘、ますます気になる。

ここでいつもと違う位置にカルピスの入れ物を見て、父が与えたかも知れぬと思う。私も少し母に飲ませた。なお帰宅後、何時か忘れたが二度ほど検温、6度5分以下で熱なし。

土曜夜はここまでで私は二階へ引き上げる。
また様子を見に階下へゆくかも知れぬが、ただいま深夜なるも眠れず。これではいけないのだが、たまらなくさびしく、母に世話になった日々がよみがえり、さびしさはさらに増す。

「蛍の光」のレコードを聴きたくなり、かなりのボリュームで聴く。
縁起が悪いとも思ったが、気持ちは正反対で、少しく奇跡起これかしと願ってのことなり。

涙があとからとめどなくあふれ、おえつを堪えきれず。
悲しむと同時に、悲しみ泣く快感の如き思いに浸る。これがさらなる涙とこみあげるおえつをもたらし、童子のようにひたすら泣く。

なお、母の食事などについて、「食べさせる」などと書いたが、恩を着せている思いはカケラもなし。
母もよく応えて、食べてくれたし、飲んでもくれた。





楽天日記に書くとかなり目立つので、ここに書く。
私はかつて「夏子2004」、のちいっとき「夏子2006」を名乗ったレディが、去年5月終わりに、およそ一年に及ぶ、さぞつらかったに違いない闘病生活で寛解し、しばらくぶりに日記を書き、私の日記にコメントを下さったことに喜んだ。

彼女は「必ず一ヶ月以内に日記開設しますから、その折はよろしく」とコメントしてくれたが、彼女の退院からほぼ一年が経つ今も、日記の開設はない。

夏子さんは想像を絶する治療の苦痛を経験したはずで、「思い出したくもない。またホーネットさんもこの言葉を出さないで下さい」とおっしゃったほどだ。

実は私は彼女が勤務していた職場の一つとおぼしきところに電話して問うてみたが、個人情報保護がうるさい風潮ゆえか、私が本名を告げても、「その名前の者はいません」とけんもほろろだった。

彼女は気まぐれな性格のところもあると言っていたから、今案外体調まずまずでも、億劫ゆえに再開設しないのかも知れないが、本心は息災かどうか気がかりである。

私は画像合成のモデルに後姿の彼女をも選んで、試みたいと思うが出来ない。
夏子さんは今いずこに。

放浪しようか

2008年3月2日
親父とどうしても気が合わぬ結論が出た。
一つ屋根に暮らすのが不愉快の毎日である。

楽天日記に書きかけのSFがあり、これを更新するのが唯一の楽しみだが、親父と、この野郎との同居が、年配の我が生活を窮屈極まるものにしていることは明らかだ。

84になって、そろそろ死にそうでも良いのになかなか死なない。
やはり本心は「早く死ね」。
私なりに努力と忍耐をしたが、犬猿の仲というより、生活観が根本から合わぬ者とは円滑に同居出来ない。

母には世話になった恩があるが、この野郎といるのは危険でもある。そして母の世話は私がやらなくとも、親父が勝手にやるから、私の存在はなくていい。

世間に怠け者の息子をせかす余り、殺害された愚かな父親の事件が時々あるが、これは殺されても文句は言えぬ。
働こうと働くまいと、因果はいずれ息子に巡って来るのだから、ほっとけばよい。

私は殺す価値のない父親を殺す愚かなというか、己れに損なことはしたくないので、父親が死ぬまで、じっと待つしかない。
それにしてもなかなかくたばらぬ。

早く死ね !

職さがし開始なるも

2008年2月29日
いい年してとさげすまれるのは承知だが、働く意欲が無い。
これは今に始まったことではない。児童・生徒の時代、殊に中学・高校の時は、学校へかろうじて通い続ける原動力が学習だった。

その弱年当時既に、「今何とか体裁を繕えるのは、毎日学科を中心の授業があり、定期テストが、その学習蓄積の結果を試すという古くからの習慣が保たれているからこそだ」と自覚していた。

私の精神的よりどころは学習であり、おおげさに言うと己れの命脈は、学習が続く中高六年間が終わる時に尽きると断じていた。
勝手だが大学でさらに学問に励む気力はなかった。

現に私の学習能力は高校までで尽きた。大学の課程は何に取り掛かっても全く理解出来なかった。

それでも大学を何とか卒業し、ついでに就職活動で神経を病み、田舎に帰って親がかりの情けない毎日が続き、実に肩身が狭く、針のむしろに坐る心地だった。

努力は昔も今もしないが、運命が勝手に好転したのだろう。自然治癒に近く回復し、以後、家庭教師、塾経営と、かなり順調に運んだが、平成に入ると不振になり、遂に塾を畳むの余儀なきになった。

まともな年配者なら、定年後の再就職に励むところだろうが、学習指導一本で来た人間は、世相変わって生意気なガキどもの天下になると、もはや昔日の指導は通らない。

もとより時代に合わせる気はない。私は今が因果の時代と信じている。
わがまま勝手を通すガキが成人し日本国家運営を担うはずの頃、ほとんどの者どもが、ガキの頃したい放題やったツケを負わされる。

道理が引っ込み無理が通る時代はもうしばらく続くだろう。
私はぶざまな最期で構わない。
これでも少年時代は我が国は良き風土に囲まれていた。
その日本の味わいが消え去った。

ガキどもよ、今にツケがまわって来る。

ブログSF失速気味

2008年1月18日
毎年、年度替わりの時期には頭の病ゆえか、気力がなえがちであったが、今年もやはりしかも早めにやって来た。

それでも仕事は――当然だろうが怠けず、重い腰を持ち上げて出かけている。

ただ、たとえば金曜日に仕事が終わったあとは週末へかけて、かなりヒマなのに、この頭の病には無関係のようだ。

気分は当然晴れぬが、さりとてうつ病の者の如く、ひどくはない。
現に目の前に、作りかけたばかりのジオラマがある。

ただ、趣味人すべてがそうではなかろうが、私の場合は不器用なのに、淋しさを紛らす目的のためか、趣味の造型をやっていて、ふと空しくなる時が始終である。

先刻、両親が私に世代の近い婦人を紹介しようかと迷っている夢を見た。相手の年齢も52才と具体的だったが、よく考えると、先日無礼なメールを寄こした富士宮の女の年齢も同じだったので、この数字が夢に結びついたと考えると、かなり興ざめである。

独りなり

2007年11月17日
独りなり
すぐ前の日記に続けてこの日記では、他人の目にはこっけいとも映るかも知れない。
だが、55を目前にした今、まさしく急転直下の身辺変化のザマを書いておく。

なお、楽天日記に比して、余りにも更新頻度が低いが、閉じる予定はない。
楽天日記に書きたくない本心を書ける利点はおおいなるものだ。

さて結論。
腐れ縁もいよいよここに極まれりと言うべきか、別の言い方がふさわしいのか、文才とは無縁なのでわからないが、ともかく私は独り身になった。

平成初年、離婚直後のごたごたで何かと物入りだった彼女を助けるべく、私はたまたま塾経営が潤っていたので、月々の収入の余りをさらに貯めて、別れた男から慰謝料などを取れない破局を迎えた状態の不利を補った。

だが皮肉なもので、年度末で塾の収入が激減する予測で毎年試算した我が収入がおよそ35万円。「こんなみじめな月収になるとしたら、つくづく売れない個人塾とは、因果な商売だ ! 」と、グチを言ったのがウソのように、状況は激変した。

彼女は当時、20万円台の後半程度の月収だったが、それでも悪くはなかった。
星移った今、その額は30万円を優に超えるものとなった。
つまり、かつて私がグチを言った金額程度に上がって、家計はまずまず安定している。

言うまでもないが、常の日記なら、冷静に心に映り行くことをつづれるが、事が事ゆえ、とりとめない文面になる予感もする。仕方ない。
時をさかのぼる。ただし、これでも本人のプライバシーに配慮の必要があるので、年度などはボカす。

平成4年ごろ、夕子と夫君の仲が修復不可能なまでに険悪になった。
この時私は彼女と再び付き合う仲となっていた。夫君の知るところともなっていたが、世間によくある「俺の女房寝取ったな ! 」というような刃傷沙汰になる気配は微塵もなく、それが冷え切った夫婦仲の証左ともとれた。

私は短兵急なところが大きな欠点の一つだが、この時は珍しく打算が働いた。いや、打算と言うべきかどうか。母に相談してみた。母は初め、夫婦不仲の夕子に同情的だった。母自らの苦い経験も手伝ったと私はみた。
だがさすがに肝心なことになると、母は頭の回転の速さを示した。

「子供を作る行為にだけは注意しなさい。あんたが、何の罪もないあんたが、貧乏くじ引かされないとも限らないからね」
母の言う通りだった。私も母の言葉を自らの考えの念押しととらえた。

逢うたび、夕子は激しい動きを示して、私はなにゆえか、そこに彼女の意図を感じざるを得なくなり、私のほうは、動きが鈍くなった。
この鈍さを彼女は敏感に察した。
「30になるまで、なぜ子供を作らなかった ? 」

逢うたび、はぐらかされ続けた質問だが、もとより冷えかけた頃の結婚生活だったゆえか、夫婦の営みの回数も、自然減って歳月を重ね、寝室もある時から別々になったから、子供が出来る機会・可能性は確かに減った。

「どっちが原因だかわからないし、調べてもみてないけど、とにかく子供が出来ないのよ」
これがようやく聞くことが出来た答えだった。あながち作り話とも思えなかった。

私の兄夫婦も、なかなか子供が出来なかった。排卵誘発剤を使ったかどうかは聞き逃したままだが、その後第一子が誕生すると、たちまち数年のうちに全部で三人の男子をもうけた。

私は「家庭内別居同然では、子作りなんぞ、する気も起きないか ? 」と、答えを聞くまでもないことを問うた。意外な答えが返って来た。
「あたしにも、うまく彼の心理分析が出来ないんだけど、こうしてあなたと不倫してることを、全く気にしていないわけでもないみたいなの」

つまり、どういうきっかけを作ってのことか、わからなかったし、聞く気にもなれなかったが、夜の営みはあるのだということだ。
私は複雑な気持ちにならざるを得なかった。抽送運動にも力が入らなくなっていった。

私は彼女との逢瀬を重ねるつど、性行為をしても、射精することが少なくなっていった。正確には安全日の確認をし、そうでない時は、私は射精せず、彼女だけがオルガスムスに達した。

こうなると、私と彼女との仲もぎくしゃくして来る。
「しばらく冷却期間を置きたい」と彼女がある日言い出した。
私は彼女をタチの悪い女とは判断したくなかったが、この時は打算と奸智を思わざるを得なかった。

「なぜ子供を欲しがる ? 」との私の問いに「そんなつもりはないわ。ただ、冷えた仲のあの人とでなく、あなたと思い切り燃えたかったの」と、否定しつつ、素直には信じられない答えが返って来た。

冷却期間を置くどころではなかった。彼女に子供が出来た。彼女から連絡があり、会ってくれとの頼みを受けたが、イヤな予感がした。
ところが「安心して、彼の子よ」という答えだった。
女の浅知恵という言葉がある。私と彼女の夫君とはかたきも同然で、まず会うことはほとんどないはずだと、彼女は思っていた。

夕子の夫君をほめるわけではないが、彼は妻の不倫相手に凄みをきかせるような、レベルの低いチンピラではない。私たちは、夕子の留守を周到に確認して、男同士会って、夫婦仲の修復のことを話し合っていた。ただし、夕子の目も鋭いので、ほんのわずかしか会えなかった。これが言わば命取りとなった。

「村松さんはあいつにだまされましたね」と聞いた時の戦慄は凄かった。
確かに夫婦仲を何とか良くしようとはしていたが、夜ごと同衾するムードはさすがに作れなかったと初めて聞かされた。
「品のない言い方ですが、私のタネは入っていませんね」

私は頭が混乱した。私とて、用意周到に性行為に臨んだ。それなのに、私との性交で妊娠したという・・・。
一つ思い当たることがあった。コンドームを使う必要があった時、つまり安全日でない期間だったのだが、私は彼女だけを絶頂に導き、それを数回繰り返した疲労で、眠ってしまった。

目が覚めた時、私の股間にコンドームはなかった。眠っているうちに、一物はなえ、それを彼女が取り去って捨てたのだと知らされた。
私はこの時、彼女が何かをしたとは思わなかった。私は彼女だけを数回絶頂に達せしめた最後に射精し、そのまま眠りこけてしまった。

これ以上推理はしたくないが、夕子は産むと決めた。私には「産む」と主張したように聞こえた。
私は彼女の腹が大きくなってゆくのを見たくなかったから、再度「決別」を宣言した。

前後して冷え切っていた夫婦は離婚した。離婚後300日以内の子は前夫の子と認める法律があるが、私は二人の正式の離婚成立の日を知らされて、この法律に当てはまると思った。

だが現実は前夫は、彼女たちのもとを去り、子供は言わば不倫の子かも知れないので、前夫は被害者と言えた。彼に離婚後の責任は問えないとしか思えなかった。
もう少し詳しく書くと、二人とも起居を共にした部屋には居たくないということで、共々別の部屋を求め、そこに落ち着いた。なお、不倫の子という前夫の強い主張で、慰謝料ゼロを決めてあった。さらに現在は前夫の住んでいるところはおろか、消息さえわからない。

彼女はいきなり母子家庭の母となった。当然ながら借りる部屋のグレードを一挙に下げた。それでも落ち着くまで、何かと物入りのようで、私は向こう一年ぶんの家賃を、四回に分けて送金し、しかも返済せざるべしとの条件をつけた。

星移って、箱根峠で私たちは再会した。1999年、平成11年秋である。
彼我の収入事情は正反対となっていた。
彼女の一粒種は、小学低学年に成長していた。『別居』という基本条件で、交際復活となった。条件はほかにもある。たとえば。夕子は我が家に必ず来ない。
これは生涯独身の私の前途を案ずる両親が、彼女たちに働きかけて同居させる可能性を私が恐れたからだ。同居は事実婚の形になる。そうさせないよう、図ったのである。

子供は私になついてくれたが、去年2006年春、中学三年になってしばらくする頃から、私を嫌悪の目で見るようになった。
詳しくは措(お)くが、私はもはやこれまで、潮時と察した。

子供とは、よく拳法を試合形式でやって来た。良いコミュニケーションだと楽しく思っていたこの武道がアダとなった。
ある時、教えた技を思い切りわき腹に蹴込まれ、とっさに起こった怒りの勢いで、私は子供の太ももを下段蹴りで強打した。

夕子の顔色が変わり、私に非難の大音を浴びせた。
蹴られた太ももがはれ上がり、子供は長いあいだ、ビッコを引いたらしい。
だが私は変わり者・父親失格などと非難されようとも、私の気持ちに間違いはなく、人情としても、不実な人間ではないと、今でも断じている。

私はこの、いずれの男の血を継いだとも知れず、またその子種について、怪しさも含めて、定かでないところのある事情で生まれたこの子供を、我が子といつくしむ気持ちが正直起きない。
残酷な言葉と承知で、最後に私を見下す目になったこの子に告げた。

「お前には間違いなくお母さんがいる。しかし、父親はだれかはわからない。お前の態度の豹変が反抗期のものであるにせよ、長年なつかれ、情も移りつつあった俺の思いを、お前の一撃が微塵に砕いた。俺にとって、お前は他人の子だ。

これはお前に蹴られた腹いせに言うのではない。ちょうどいいきっかけと思って言うのだ。俺はお母さんがお前をお腹に宿した時、正しい事情を詮索するより先に、堕胎するよう忠告した。子供は祝福されて生まれて来るべきだ。
俺は、いや、ここからは『おじさん』と呼ぼう。おじさんは、ある推理からお前を『コンドーム・ベビー』と・・・」

ここでさらに母親が声を荒げてなにやら大声で怒鳴ったが、私は平静を装って言葉をさえぎった。
「なぜ亭主と俺をテンビンにかけた ? 正式に離婚してから子供をつくっていれば、また事情も変わっただろうに。お前は幼稚な小細工で、コイツの子種を体内に入れて、生まれた子供が亭主似なら、仮面夫婦でも子供本位で暮らせると思ったようだが、甘い。元亭主殿は、『子供が嫌いだ』と告げた。

コイツがせめて俺になついてくれたら、俺も情が移ったのに・・」
と、私は子供に向き直って、
「今後、お前が事故死しようと病死しようと、おじさんは新聞・テレビのニュースを見た程度の関心しか起きない」

「じゃあ、これで帰るよ」
これまで何回も繰り返した言葉だったが、この時は別れを告げる言葉となった。

後日談 / 腐れ縁という言葉は、悪い意味に使うものらしいが、やや遠くに去った母子は、月日を経るあいだ、私との何年間を思い出したり、考えたりしたらしい。
もはや、親子として付き合うことはあるまいが、現在もメールなどでのやり取りを再開、続行している。
私「こういうのは楽天日記に書くと、なぜかアクセスが上がるんだけどね」
夕子「まだダメね。相変わらずアクセス気にしてる」
私「けどさ、去年10月から今年の3月ぐらいまでで、およそ5ヵ月程度のあいだで、70 / 日から80 / 日まで上がったのは、俺にしては異常アクセスだよ。お前さんには悪いけど、『夕子ネタ』ほとんど無しで、ググッと上昇したから、何だかわけがわからない。それでいて、勢いっていうのかな、お前さんとのやり取りのでっち上げ日記書いたら、かなり上がったんだ」

夕子「何かしらね・・・。一時期、あたしを登場させるネタ書いてもサッパリになったのにね」
私「あちいーッ ! 」
夕子「あ、ごめん ! うめないでかけちゃった・・」

私「ううー・・・。でも冷え切ってるしな」
夕子「ね、冷やすために今度は水をかけたりしてね」
私「かんべんね、心臓マヒ起こすかも知れないから」

夕子「さ、いいわよ。あとは自分で洗うところ洗ってね」
私「このまま入っちゃダメ ? とにかく寒くて・・」
夕子「いいわよ。あったまってね」

ザブーンとまでの音はせぬが、ううー、初めは熱い。
私「お前さんのオッパイ、ベストフィットサイズだね」
夕子「あたしは小さいわよ」
私「だからベストって言ったの。まだ弾力がありそう」

夕子「あら、それはそれは、ありがとう」
私「きちんと洗うんだね、当たり前だけど」
夕子「でも、あたしはていねいじゃないよ。さっさと洗って、ザブンとつかって、かなりカラスの行水ってとこよ」

私「あ、そうか。カラスだ」
夕子「何が ? 」
私「俺、今鶴の何とかと間違えてた」
夕子「ああ、それは鶴のひと声でしょ」
私「うん」

夕子「さて、入るわよ」
私「うおーっ、アルキメデスの原理だ。凄いね。だいぶあふれた」
夕子「二人いっぺんに出たら、お湯だいぶ減るわね」
私「『サンダ対ガイラ』みたい」

夕子「何それ ? 」
私「いい怪獣と悪い怪獣が海で闘うの。東宝映画の」
夕子「あたしはどっち ? 」
私「もちろんいい怪獣」
夕子「名前は ? 」

私「いいほうがガイラ。俺、悪いほうでサンダ」
夕子「ウソでしょ。反対って気がする」
私「バレたか・・」
夕子「あなた元気ないね。・・・仕方ないけど」

私「わかる ? 」
夕子「いつもなら、もっとはしゃいだりして、悪ふざけするもの」
私「カラ元気は隠せないってことか・・・」
夕子「今急に言ってもあなたの性格だからダメでしょうけどね、少し前は仕事が激減したこと考えたら、・・って言おうとしたの。気にしたらゴメンね」

私「いいや、落ち込んでるのは確かだけど、お前さんの慰めは慰めになる・・」
夕子「そお。何か・・・」
私「何 ? 」
夕子「あなた、気が優しくなったね」
私「弱くなったんじゃないかな」

夕子「前と違うもの」
私「ふーん・・」
夕子「ため息交じりね。あ、また気になった ? 」
私「いいや。気をつかわないでいいよ」
夕子「・・・。やっぱり優しくなったよ」

私「俺、お前がいてくれて良かった・・・」
夕子「いっときはあたしが迷惑かけたのよ」
私「そんな金銭的なことやなんかは、気にしてなかったよ。わかるかな、男の気持ち・・」
夕子「って、何 ? あたし、察しが悪いかしら・・・」

私「いいや。非難めいたこと言ってるんじゃないんだ。俺ね、いや、男はね、自分のために何かを買っても、生き甲斐にならないって言いたかっただけ」
夕子「ああ、そういうことね。でも、そういう気持ちって、うれしいのよ。恩に着せない響きがあるから」

私「お前のそういう話し方・・・優しいね」
夕子「何だ、あなた、泣きそうな感じ・・」
私「ハハハ・・・泣いてるよ、もう」
夕子「いやだ、あたしもつられそう・・・」

私「不思議な縁だったね、俺たち・・。時に世間からは白い目で見られたりしたけど」
夕子「苦労したものね、特にあなたは」
私「そうかな・・」

夕子「あ、よく見るとスポーツ刈りの頭も、白髪がわかるわ」
私「そう。増えたんだよ、めっきり・・」
夕子「あなた、出来たらいくつまでバイク乗りたい ? 」

私「お前さんは ? 」
夕子「あたしは・・・今のあなたぐらいまでは乗りたい」
私「じゃあ、俺が60くらいまで乗ってたら ? 」
夕子「そしたら、あたしも・・・ううん、無理かもね、女の体力では・・・」

私「バイクは年齢のある乗り物だな」
夕子「そうよね。何だかさびしいね」
私「共通の趣味が、・・あと10年くらいで無くなるのかな・・・」

夕子「あなた・・」
私「ん ? 」
夕子「せっかくナナハンに乗るようになったんだから、どおかしら、トライクに改造ってのは・・」

私「ああ、そういう手があったか」
夕子「車幅も出来るから、かなり安心して乗れるかも知れないわよ」
私「うん、そうだね」
夕子「こら、厚和 ! 元気がないぞ・・・なんて、気に障った ? 」

私「元気出ないけど、独りよりは格段にいい」
夕子「来て良かった ? 」
私「もちろん」
夕子「お風呂から上がったら、あとで深夜営業の食堂でも行かない ? あ ! 食欲ないか・・・」

私「今夜はさ、ビデオでもゆっくり見ようかと思ってさ」
夕子「あたしのとこのは、半分以上はあなたのダビングか、もらったものよ」
私「今夜持って来た」
夕子「どんなの ? 」
私「世代ギャップがあるかも知れないヤツ。あ、それからCDも」

夕子「いいわよ。正義の味方なんか ? 」
私「当り ! 」
夕子「聴きましょ。あたし、ついでにまだ知らないのも覚えるから」
私「お前さん、優しいね」

夕子「今夜は特にね。そのためにわざわざ来たんでしょ ? 」
私「なあ・・」
夕子「何 ? 」
私「俺たち、同居して、うまくやってけるかな・・・」

夕子「あたしは自信あるけど・・・心配 ? 」
私「もう、両親が息災でいるのも、時間の問題だしな。縁起でもないこと言うけど。遠からずその時が来るのは間違いない。・・・そうしたら、俺たちが今度は老境の生活に入って行くんだよな。まあ何とかなるかな」

夕子「あーあ、のぼせちゃったかも・・。上がらない ? 」
私「うん」
夕子「ね、これ、コピーして楽天日記に載せる ? カテゴリー『のろけ』で」
私「どうしよう・・・」
夕子「たまには、ここにそっと掲載するのもいいか・・。さて、出ましょ」
ヤフーに出会いサイトがある。
トーカイでは時々やっているが、どういうわけか文字化けする。

文字化け警告を無視する書き方はしていないが、二通送って文字化けする。

仕方ないから、やや厳しい条件のヤフーに書き込みしようか。
籍を入れない数十年の付き合いは、やや飽きが来た。

こちらにも書かねば

2007年1月11日
さらに年が改まった。ようやく6年ほど使ったパソコンに別れを告げ、新機種を買った、いや正確には買ってもらった。

楽天日記のことは何度も書くが、いいと思うぶんだけ、イヤな思いもする。

アクセスを気にして書くのは体に悪いと思うが、自然、楽天日記更新に力が入るのはやはり豊富な装備ゆえか。

それなら、このダイアリー・ノート利用のあまたの人が、楽天日記も開設しているのか。
これはわからない。

ところで私はずいぶん前から正月意識がないが、確かにこの正月もあっというまに来てあっというまに去った。

所帯があらば、また違った生活となったであろう。
だが、衣食に欠くわずかな仕事しかしない怠け者を相手にする人とてなくて当然。

ただ、妙な関係抜きの性別だけ異性と意識するだけの、ガールフレンドが欲しい。

新年、年頭の悲願と言えるが、このまま何もせずにダラダラ過ごすと、やがて悲願ならず、彼岸が待つこととなるだろう。

命短し恋せよ乙女は、乙女を男に変えても言える。さらに老若はない。

年末雑感

2006年12月25日
年をとると正月なんぞどうでもいいと、母などは言っていたが、子供の私は理解できず、楽しいことへの期待ばかりだった。

この年になると、母の気持ちがわかる。
何ということはない。年をとるだけのものだ。
さらに新年なぞは、人間が勝手に作ったもので、犬畜生にはきのうもきょうもない。

それでも習慣だから勢いで年末年始をおせちなどの用意でやるのだろうが、そろそろ飽いてきた。

きょうが8月の25日ならば、翌月一日は元旦でなく、9月1日なのと実は同じである。
若い女子がなにゆえか好意的に接してくれて喜んだのもつかの間、多分義絶は時間の問題であろう。

人のメールにきつい言葉を意識して加えて返すようになったら、それはほぼ嫌悪の情をぶつけたも同然で、それなら書いたほうは書いた甲斐がないが、文章には限界があるから、行間の心は伝わらない。

この年末はいつになく良い終わり方をすると思ったら、交流は相手あってのもので、その相手が我が文意にかみついたなら、それは義絶の予告も同然だから、私はつくづく人とのかかわりで損な人間だと思う。

ただ私は恋愛やら異性には、よだれを垂らして求めさまようほどの執着はないから、執着で生きているような者の料簡はとんとわからない。

縁は求めても求めなくても、訪れる時も訪れない時もあるから、言わば天命である。

天命なれば私はじたばたしないが、世の中には寝ても覚めてもじたばたして、メールなどにしがみついて、ヤキモキばかりする者がいるが、ない時はいくら待ってもないし、ある時は求めなくともあるから、勝手にじたばたせよと、ここは突き放すしかない。

私は別にこの年で異性の友は要らぬ。
面倒だからだ。

終わりが良くないが、これも相手の誤解か狭い心なれば是非もないことと不承するしかない。

恋に燃える女子あり

2006年12月16日
二年来のリンクなし交流の若い大学院生(女子)が、向うからリンク申し出をしてくれたのが、とてもうれしかったが、何しろ今の世に珍しいくらい、けんそんばかりして、恋煩い甚だしいので、せっかくのリンクも、不安定なこのごろである。

とまれ、この娘さんの恋愛一途な生き方は、億劫がっていた私の心にも火をつけてくれた。
ただし、私は言わばしっけた生木のようなものなので、つけた火が燃えずに消える場合もある。

この娘さんの怒涛のような想いを見習いたいが、これも、「こうして、こうするのよ」という具合には教えてもらえるものではない。

私はこれから、残りが少ない人生に潤いをもたらすために、どんな方法をとると良いのか。
このダイアリー・ノートは、確か以前、主宰者が「文系なので・・・」ということを書いていた気がする。

私がもう一つ登録している楽天日記は、機能が多い分、メンテナンスがひっきりなしで、時々またはひんぱんに深夜族と化する私には、不便を感ずることがある。

ただし、このダイアリー・ノートにも、画像アップ機能を正式装備してくれたら、なかなか楽しくなる気もする。
もっとも、楽天ほど多機能にすると、結局メンテナンスの機会が増えるのではないか。

便利は不便を伴うことは、既に何千年も前の支那人が見抜いている。
すなわち「機械あれば必ず機事あり」である。
日記の本分は文章を書くこと。この原則を忘れぬようにしておけば良い。

この文章の最後に。
夏子さん、今どのような容態にあるのでしょうか。
私にはあなたが悪性腫瘍の病気にかかること自体が信じられません。

このうえは、あなたというレディに、治療による驚異的回復または奇跡の全快が起こって欲しいと祈るのみです。
夏子さん、若いのに可哀想に。
よそ様のことなので、詳しくは書けないが、先日大しけの海で釣り船が転覆し、死者が出た報道が気になっていた。

ただいま教授業でお世話になっているお宅の身内のかたが亡くなったとわかった。

先週の授業を休む旨連絡があったので、もしやと思ったら、果たして予感通りだった。

今までで一番感じの良いお宅の縁続きのかたの不幸なので、お気の毒なことと思うと共に、一寸先はヤミという人の運命のはかなさをつくづく思い知らされた。

明日は我が身でない保証はない。
だが生きるに消極的な私が、ムダに命をつなぎ続けるいっぽうで、恐らく「釣り」という趣味にいそしんでいたであろう人が亡くなる皮肉に、改めて『この世は神も仏もない』と感じた。

訣別

2006年10月16日
今度こそ訣別となった。
トラブルあってのち、メル友でいようということで合意したが、メールだけの付き合いには、限界がある。

互いの近況報告だけでは読んでもつまらぬから、送信しても、相手も同様だろうと思ったら、果たして同じ考えだった。

もはやメル友の付き合いは付き合いにあらずと、私が簡単なメールを送ったら、相手も承知した。

今はもう、全く音信がない。
付き合いは終了である。
楽天日記にさまざまに書いた日記は無理に消すことはないと判断し残すが、今後夕子のことをつづることはない。
私の過去の日記に心証を悪くされたとしたら、最近書いたものが現在の考えですので、どうぞ先日わざわざ富士までおいでになった時の雰囲気へと復旧されることをお願い致します。

なお、三男の○○君に教えたのとは別の日記サイトがあるのにもかかわらず、こちらの日記の検索法を伝えてしまいました。
改めて下記の別日記サイトをご確認のうえ、コメントなどいただければと存じます。

検索法 / 「特撮機関誌大一プロブックHP」

↑これで「楽天日記に三年ほど書き続けている日記のトップ・ページが現われると思います。
お手をわずらわし、すみませんでした。

義姉さんへ

                       厚和
夕子から「コラムの骨法」の如きものを書けと提案を受けた。
既にワードに下書きが完成段階になっているが、楽天日記にアップせよとの助言または下知もされた。

「お前の名を出すと嫌う主婦が日記交流の中に一名おるよ」と告げたが、カエルのツラに水で、「かまわない」と言う。
まあ、今夜のところはやめておこう。

くノ一こと夕子、諒とせよ。いずれアップする。
7月23日付で、「和子」さんと名乗る婦人からコメントが寄せられているが、失礼または残念ながら、私はこの名前の婦人を知らない。
しかも、コメントとはいっても、どの日記に対するコメントかがわからない、まあ、あいさつ言葉程度だから、いろいろなことを書いている私にも、コメントにどう答えたものか、わからない。

ただ一人同名で思い当たる婦人がいる。この人は亡き兄の細君である。
私の日記の過去の内容まで読んだとしたら、多分余り心証は良くないことと察する。

一応弁解しておく。
私が「亡兄を偲ぶ」と題して書いた一、二年前の日記は、さらに十一年ほどさかのぼる平成7年、兄が白血病で帰らぬ人となった直後に書いた本物の日記帳を引き合いに出したりして書いた、当時の心境に合わせたものである。

このころもその後しばらくも、兄嫁と我が家とのあいだにはずいぶん冷えた関係が続いた。
だが、今や兄嫁の三人の子も、見違えるほど頼もしげに成長し、遂に全員、成人に達した。

確かにまだ甥が三人とも少年だったころ、私はあなどり気味だった。
兄嫁・和子さんが「私には三人の宝物があります」という意味のことを言ったとき、正直「ふうん、宝物ねえ・・・」といくらかシラけた思いで聞いたものだ。

だが、彼女が女手一つで育てた三人が三人とも、驚くほどたくましくなり、しかも私に対しても如才ない姿勢・会話のやりとりを見せるのを知り、苦労もあったろうが、兄嫁はたいした人だと思った。

先日、日帰りで我が家を訪れた時の様子も、兄嫁は、「私は苦労しました」という影を全く顔に表わさないから、むしろ私はこの婦人の心丈夫さに敬意を持った。

和子さんは、私と同い年だ。普通、この年齢になると、容色が衰えて来るものだが、彼女は11年前より、つやっぽくなり、魅力的に見えた。
後家を通す決意かも知れないが、職場の男子に人気があるに違いないと察したい。

かつて兄は「あいつのほうから俺にほれたんだ」というようなことを言ったが、兄には悪いが、どうも疑問がある。
結局、相思相愛の仲になって所帯を持ったのではないか。

兄嫁はその姿を写真に撮られることを極度に嫌うが、ナニ、私のような不細工男に比べたら、彼女の写真写りは、格段に上だ。
私が魅力があると認めているのだから、本当はどんどん被写体に、モデルになるべきだと思うのだが、兄嫁はけんそんし過ぎる。

また、三人の子達は、母親の器量を時に茶化す場面があったと記憶するが、見る目がないと言いたい。
この子達のお母さんは、実の子供の曇った目には見えない美しさがある。

余り称えると、亡き兄がヤキモチを焼いても困るので、このへんで手をとめる。
なお、次男は抜群の英会話力を身につけていると聞く。
さらに三男も英会話が出来る。

11年前、兄嫁が「三人の宝物」と言ったのは、正しかった。

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