父死す
もうずいぶん前には、父の早からん死を願う如き日記を書いた。
父とは確かにソリが合わなかった。

げんきんなものだと言われるかも知れないが、死に様が哀れだった。
今年の1月26日に市役所への方角がわからないまでに、初期の認知症らしきものが出ていて、全く方向違いの段差のところに前両輪脱輪して物損事故を起こし、その後始末は私がやることとなった。

父本人に責任能力がないことを知ってショックを受けた。頻尿も進み、あるいは段差に落ちた衝撃も身体を損ねたかも知れない。
最近の父はめっきり衰え、私に対しても穏やかになっていた。

父はその自損事故からわずか10日後の2月6日、日曜日、湯船で溺死して果てていた。
私は真っ先に疑われ、刑事第一課、すなわち殺人課の刑事が「検案」で数時間拘束した。

自力で湯船に入るべきではなかった。しかし何時に入り、死因に至る本当の原因は何か、不明のまま、検案は終わった。

葬儀は私一人が斎場へ赴き、費用わずか15万円ほどの粗末な処理となった。
両親と私三人が、皆元気な時に決めた質素な葬儀だった。

四六時中、家族に横暴な振る舞いを働くものでない限り、87の老骨に鞭打つ如き身体の衰えを耐えて遂に果てた父の断末魔の苦痛はいかばかりか。

生前は確かに憎むことも多々あったが、不思議なものだ。
毎週のゴミ出しと台所の流しの始末を欠かさなかった父の姿がもはやない。

お骨(こつ)になった時、係りの人が父の骨の丈夫さに驚いていた。
旧陸軍士官学校で鍛えた身体は、おそらく私より強じんだった。

骨折経験はなかった。70歳で仕事をやめたあとも、シルバーの仕事を80過ぎまで続け、残る私たちの預金に貢献した。

あのまま生き続ければ、さらに私が尻拭いを強いられる迷惑も増えたことは想像出来る。
それでも繰り返し不思議なものだ。父の生活空間に、その姿がないだけで、家がぐんと広くなった。寂寥感(せきりょうかん)が漂うとは予想もしなかった。

父は、叙情歌とも言える「真白き富士の嶺(ね)」を聴いて「何んとも胸がしめつけられる」と言い、「雪の降る町を」を愛好歌の一つとしていた。

口論絶えぬ時、私は「おまえが死んだら、骨壷は物置に放り込んでおくぞ」と激昂したが、今や、納骨の時、村松家先祖累代の墓に埋葬してあげようと即座に決めた。
生涯大好きだった酒を墓に供えてあげようとも思っている。

お母さん、おととし2008年は、見事な回復ぶりを見せてくれましたね。

今回は運が悪いとも言えるかも知れません。
デイ・サービスを増やすころ、軽い肺炎が忍びよっていたとしたら、これはどうにも仕方ないことですよね。

もう一度、足腰の力と食欲が回復したら、もう私は三たび望む欲張りは致しません。

お母さん、もう一度元気になって、デイ・サービスで楽しく過ごして下さい。
母が時々今生の別れ
母は目下足腰も元気で食欲もあり、かつて私たちにとても気を遣ったぶん、その神経の疲れを忘れ、主に食欲がかつてをしのぐ勢いであり、まるで今までのぶんを取り返そうとするかのように、頼もしい食べっぷりをほとんど毎日見せてくれる。

だが時々私に対して似つかわしくないほどのていねいな言葉遣いで話すことがある。
きのうだったか、母のベッドに近づいた私に「いろいろお世話になって、本当に申し訳ありませんでした」などと言う。
私は「お母さん、相手は息子なんだし、それにそれじゃまるで今生の別れだよ」と穏やかに否定するが、母は「だって現にそうなんだから」と、涙ぐみながら言う。

もし母が痴呆症の症状著しくなく、かなり正気のままだったとしたら、母はどんな様子だったろうと想像することがしばしばである。
もしかすると母の食欲は旧に戻るかも知れない。

そのぶんかつてのめまいなどの病が出るかも知れない。
だがその容態の母を見守って、看護してやるほうがいいのではないかと思えることがある。

母の脳に入って確かめることは出来ない。
母は今どう感じて明け暮れを過ごしているのだろう。
可哀想でならない。
楽天日記が恒例のメンテナンスに入ったし、どちらかというと、こちらのブログのほうが気持ちを楽にして書けるので、母の近況を主に書いておく。

前回母の圧迫骨折心配なりとの内容で終わりにしてあったが、ただいま母はたとえばトイレにゆきたいという時、私などの介助を得て、しっかりした足取りで歩けるし、用足しも完全にとまではゆかぬものの、ある量きちんと便器に済ませている。
そこまで驚異的に回復した。

それでも母の手を引いて歩くとき、高齢の母親を持つ人ならば皆ほぼ同じ思いだろうが、ずいぶん背丈が小さくなり、何となく体重も軽くなった感じで、言葉に尽くせぬ哀感を覚えずにおれぬ。

当の母本人は、己れの置かれた立場を憂えるなどということはあるまいが、それでもめっきり老け込んだ挙止いちいちに視線をくれて、可哀想だと思う気持ちをぬぐえないのである。

私がまだあらゆる面で幼く、心もとない様子だった頃、母はいろいろ面倒をみてくれたが、今やつかの間と思われることながら、立場は逆になっている。

そんなことを暮夜ひそかに思っていると、階下へゆき、ベッドに横たわる母の頭をなでて上げたくなる衝動にかられることがある。

子が先立つ逆さまは、母親にはこれ以上ない悲しみであろうが、子にとってみれば、かつて優しく頼もしく、私を育ててくれた母の老いを見るのもつらいものなのである。
24日、金曜日夜中に引き続き、25日土曜日の夜中も、母は足のひざ周りあたりをおさえて痛がった。

正確には24日夜中というのは、25日夜中だが、自身にわかりやすいよう、このように書く。

しかもその痛がりようは、昨夜より今夜半のほうがひどく、すっかり細くなった両手をベッドの手すりにかけて、思い切り伸ばし、遂にベッド上に上体を起こすほどの痛がりかただった。

この25日夜半、遅い夕飯を終えて昨夜と同じく様子を見にゆくと、母は案の定目をあけていたが、ほどなく「痛い、痛い」と間断なく襲い来る痛みに耐えがたいようだったので、私はおろおろしてしまった。

ところが母自身が「起きちゃってみようかな」と言うので、私もベッドの上部をアップした。すると母は先ほどのように、ベッドに半身を背筋を伸ばすように起こして、なおも痛がった。

母に申し訳ないことを書くが、このような時、母はつかの間認知症ではない。
痛がりながらつぶやく言葉など、全くかつての元気な頃の母の口調であり、言葉遣いである。

そのうち何とか母は余り痛がらなくなり、力が入っていた肩も楽な感じになり、ごく普段の雰囲気になったので、私はノドが渇いたかと問うと、渇いたよと答えるので、カルピスを100ccほど用意すると、あっという間に飲み干した。

しばらくして「お母さん、ためしに横になってみるかい」と問うと、うなずくのでベッドを下げると、まもなく穏やかな顔つきになり、私が額に手を当てているうちに、軽い寝息を立て始めた。

ただいま母に施している介護行為の幾つかは、ほとんど役に立っていないと推測する。
本当の医療行為以外は、適当なところで打ち切りたいのが私の本心だ。


母の夢たびたび

2008年10月10日 日常
母はきのうは訪問看護婦が帰ったあとで、いきなり胸の左側をおさえて「痛い、痛い ! 」と言い出した。
推測にとどまるが、母はああみえて、未だ他人の前では耐えているのではないか。

午前中に看護婦が去ったあとすぐに、さらに午後、ヘルパーが何を施して行ったのか見当もつかぬが、これが去った直後、階下に降りた私にいきなり「痛い、痛い」と午前中と同じ箇所の痛みを訴えた。

この日、他人が来ることはないと確かめたうえで、私は母のベッドに入って、言わば添い寝をした。

こんなことを日々続けているせいか、私はこのごろ二階の自分のベッドに就いて眠りに落ちると、明け方ごろか、母の夢をよく見るようになった。

10日明け方としておこうか、母はさすがの私でも派手だと言いたくなるオレンジ色のような着物姿で現われた。
それでも母が気に入った様子なので、私もうれしくなり、「カメラに撮ろう」と言って、一旦二階に上がった。

夢の中では階段をあがる場面はないのだが、感覚にある。二階教室のデジカメを取りにゆく手間を感じているのだ。

階下へ戻ると母は、いつもならば正面から撮られるのをいやがるタチなのに、オレンジ色のそでを左右に開いてこちらを向いたから、私は覚えている限りでは二回シャッターを押した。

無論その写真は現実の今はない。
母と兄元気なりし頃
兄は確かに幽明境を異にするあちらの人間だから、母を兄と同じく扱う気はない。
だが、この母子ツーショットとも言える一枚は、忘れがたいものである。

成長して何かの折に我が家に寄った晩は、兄は母にべったりだった。
二人とも日本史が好きで、知識に疎い私はお邪魔虫であり、それがうれしくもあった。

画像で母の着ているワンピースはおよそ20年目の今でも立派に着られる。
物持ちのいい母は、衣服を買う時は無駄をせぬ代わりに無理に安物を買わず、ひとたび買ったら大事に着るから、買われ着られ続けた衣類も、二時代を優に過ごして無事なのである。

このワンピースは今、母のベッドのすぐ横のつい立にかかっている。

平成元年8月富士宮のお浅間さんで撮影




母の寿命はいかに
いつ書こうか迷っていてこんな変なタイトルと共に書くこととなった。
母が真夏の脱水症状でつかの間入院し、退院して来たころにポツリ言った言葉だが既に日付けを思い出せない。

9月初めと書いておく。
「お母さんは今年中に死ぬのかねえ」
母はベッドに横になって恐ろしがるでも何んでもなく淡々と言った。


母はほとんど毎日、庭で落ち葉拾いに余念がなかった(画像は2003年5月20日撮影)。


母の様子080927土曜日

午前九時過ぎオムツ替え。便、ニオイのみで、なし。尿タップリ。
床ずれ処置。水・お茶100cc。服薬。

プリン半分ほど。夕食いつも通りおかゆ半分以上。
水分合計600cc。脈拍70。体温6度5分(5:30p.m.)


母の様子080926金曜日

午前九時過ぎオムツ替え。摘便処置翌日だからか、便は余り出ていない。
尿多し。床ずれ処置。良くなっているとは見えぬ。
体温計らず。脈拍午後三時近く、72。
きのうまで順調に見えたストローでの水分補給。
きょうは母がしきりとストローをかむので、大声で怒鳴ってしまった。

私はダメだ。
その時の母の困惑の顔を、母が見せ続けた微笑の中に見たと思った時は、私は後悔先に立たずと、自己嫌悪となった。
ナニ、母に教えられたわけではないか。

我々は記憶がしっかりしているなどと思い上がる資格はない。
水分合計800cc。
記録時刻夜九時半過ぎ。

11時過ぎココア味100cc。
合計900cc。
ただいま27日、土曜日午前零時ごろなり。

車椅子は役に立たない。



母の様子080925木曜日

朝九時ごろ、ココア味飲み干す。100cc。
のちお茶100cc。
11時過ぎカルピス100cc余り。
合計300cc。

午後、中くらいのまんじゅう一つ。水100cc余り。
5:20過ぎ、カルピスを飲む。100cc。
合計500cc。

6時半夕食。おかゆ昨日と同じく半分を優に超えて食べる。
他人からみて少ないと言おうと、元気な頃から母は少食である。
これでも多いのである。豆腐二カケラ。このかん水100cc。
合計600cc。

我れ、車椅子自信なし。夕食後ベッドに腰かけてうとうとする。まもなくベッドに横になる。
8時近くカルピス100cc、飲み干す。
合計700cc。

微熱があるようだが検温せず。医療記録としては役立たぬは承知。たとえば6度8分などという数値を見て又水分、という処置はどうもイヤだ。
これも好き嫌いではないと言われようが、理屈ばかりの「健康世界」はイヤなものだ。

タイトルの通りである。
母を車椅子に乗せ、または車椅子からベッドに移す時に、とても痛がるのがつらい。

また気が変わるかも知れぬが、とりあえず本ブログへの記録清書を中止する。

・・・・・

ヒマな日が多い情けない日常だが、拙いながら母の世話は、これくらいヒマでないと、ほとんど出来ない。

その母がきょう一日、余り元気がないようだった。
気になり、夕食後ココア味100cc余りを持ってゆくとほぼ一気に飲み干す。
水分不足だったと痛感。

母は夜元気になるのかも知れない。

摂取水分650cc。

・・・・・

深夜2時半ごろ階下の母の様子をみると目をあけていた。のどがかわいたようなのでココア味を用意すると、たちまち100ccを飲み干した。

合計750cc。

母の様子080923

2008年9月24日 日常
母の様子080923火曜日

午前九時過ぎ、オムツ交換。便ほとんどなし。尿やや多し。月曜日入浴の日に摘便のせいか。便がなくて作業は楽なれど、痛しかゆし。
床ずれ処置せり。白い部分広がるとみるも、治るを祈れり。寝巻きをパジャマに替える。

十時ごろ車椅子に移ってカルピス一気に150ccを飲み干す。
正午ごろベッドに移る。痛がる。上手にならねば。
午後三時、ココア50cc。合計250cc。

プリン残り半分余り食べてカラにする。検温6度8分。
4時過ぎ、ココア150ccを飲み干す。合計400cc。

再び車椅子に。時刻未記載。夕刻か。車椅子上でよく眠る。
五時近くからカルピスを飲み始める。
五時半ごろカルピスを飲み干す。150cc。
合計550cc。

6時近く、ココア50ccを飲み干す。合計600cc。
体温7度2分。先ほどのココア50ccののちさらに検温。7度。

6時半夕食。おかゆを良く食べる。豆腐二きれ食べる。

十時過ぎ、ベッドから畳へ降りている母に困っているとの父の知らせに、母をベッドに起こして寝かせる。ケガなとない様子。本人は至ってご機嫌で、やはり起こす時だけ痛いと言う。ベッドに横になってからはニコニコしている。
ココア150cc飲み干す。合計750cc。

本記録つづれるただいま、時刻夜中の一時半過ぎなり。既に一旦ベッドで眠って、目が覚めた。ここから我れ眠れず、さてどうしよう。

・・・・・・・・・・

更に我れ眠りこけたようで、深夜三時ごろ階下へゆき、母の様子をみると、果たして母は寝返りをうって、反対側に横になり、更にまたも両足をベッドからおろして、畳に着いていた。

元々身体柔軟なので、骨さえ丈夫ならこの病も軽く済んだと察しられる。
オムツがやや重そうなのでみると、便秘気味か、通じなし。尿は前日の飲料の量ゆえか、ずいぶん出ていた。新しいものと替える。

母に聞いたらのとがかわいたと言うので、カロリーメイトのココアを150cc用意すると、短時間に飲み干した。合計900cc。心なしか元気そうなり。床ずれは相変わらずだが、生命力がいくらかよみがえったと捕えたい。

本記録つづれるただいま、明け方近い4時半ごろなり。
これよりベッドに横になる。

母の様子080922

2008年9月22日 日常
母の様子080922月曜日

入浴の日を意識してか眠れず、またケアマネが来た時に母の下着がよごれていてはと思い、午前七時半ごろオムツ交換、床ずれ処置、着替えを済ます。

尿、便ともにかなり出ている。前日700cc近く飲み、夕食のおかゆもたっぷり食べたから、当然だろう。

このあと母には車椅子に腰かけてもらい、カルピスをコップで飲んでもらう。
100cc余り飲む。

九時過ぎ、ケアマネから電話。いよいよ横柄なり。
何かあったらケンカしてやろうと思っていたら、来宅後早速あった。
ケアマネは玄関で車椅子で待機せよと言いやがる。

私は玄関の下までとは聞いていないからやってくれと言うと、ダメだと答える。
私はこのケアマネにそろそろうんざりしていたから、「冗談じゃねえ」と言い放って二階へ上がったきりである。

母は入浴に行ったが、ありがたみは感じられなくなった。
何が介護サービスだ。

そのうち私が母を自宅の風呂に入れてあげるつもりだ。プロの連中がどこまで技術を習得しているか知らぬが、今よりもう少し母にとっての入浴環境を整えれば出来ぬことではない。

三時半ごろ母帰宅。
床ずれが一番気になる。焦眉の急なり。

帰宅後、母をずっと車椅子に腰かけさせておく。
夜6時半ごろ夕食。かなり食べる。
入浴に行ったのできょう全体の水分量はわからず。また、夜になって鼻水が出て、しきりとふく。きょうは朝から土砂降り、午後から回復してやや暑くなるという不順な天気だった。


ただ気になるのは、ケアマネの人の「摘便しましたが黒い便がずいぶんたまっていました」という話を初め、幾つか母の身体各部に指摘される箇所があることだ。
次第に衰える途中段階ならば、延命治療にも似て、母が可哀想だ。

たとえ本人は苦痛などを具体的に訴える術を知らぬとも、見ていて可哀想だ。
つい数ヶ月前まで、おぼつかない足取りで階段さえもあがって来たあの母の姿は、もう見られまい。

お母さん。厚和は最後の最後にまた一つ親不孝をしてしまいました。
この罪を償う方途は一つも浮かびません。

母の様子080921

2008年9月22日 日常
母の様子080921日曜日

午前九時半ごろからオムツ交換。ズシリ重い。便かなりの量。通じ良好とみられる。オムツの重さは尿の量がほとんどとみられる。

じょく瘡処置、パジャマズボン替えも含めて、約一時間。

車椅子に移って、水・カルピスあわせて150cc余り飲む(10:30~11:00)

正午ごろカルピスさらに80cc。ここまで合計230cc。「横になりたい」と言うのでベッドに移る。私も横で眠ってしまう。

二時ごろ小粒まんじゅう二つ半。食べっぷり良し。
カルピス50cc。水分合計280cc。
この時、またもベッド上、自力で上体を起こす。

4時ごろ、残るカルピス50cc飲み干す。合計330cc。
検温6度4分。

五時過ぎカロリーメイトココア味100cc飲む。合計430cc。
6:30過ぎ夕食。おかゆ半分以上食す。これが通じにつながっていると思われる。

のち歯磨き。夕食時とあわせて水150cc飲む。
合計580cc。母は元気な頃、1000cc飲むこともあったかも知れぬが、断じて最大量とも言われる1500ccは飲まなかった。

そういう私が2リットル入りペットボトルを一日でからにはしていない。
意識して健康維持をはかるのも空しきなり。
メシが食いたいヤツは勝手に食うがよかろう。

そうして西遊記の猪八戒のようになれ。



特記 / ケアマネおばさんの恐さ。
やや前のことだが母にじょく瘡、脱水症状、左太もも骨折の疑いありというので、救急医療センターへ連れて行った。

帰りの車の中でケアマネさんは「この日の医師の診断、主張を覚えておいて、後日何かの時に職務不履行を言えばいい」という意味のことを言った。

母の床ずれつまりじょく瘡はなかなかがんこなものではあるが、あの時処置していても、いずれ傷は広がったと思われる。

現代は何でも訴えることで家族たちが恨みを晴らそうとしている傾向を感じるが、人には皆「星」というものがあることもそろそろ考えてはどうか。

物事の原因をすべて外に求めてばかりいると、経験が経験でなくなり、遂に人は経験をしなくなる。

古い話だが、亡き伯父は、昭和18年、22才くらいの頃、当時の岳南堂病院で静岡の日赤からも呼んだ医師たちに腸チフスと誤診され、チフス菌を注射されてたちまちその日のうちに40度の熱を出し、菌が脳に達してうわごとを言いながら息を引き取った。

戦時下ということもあったろうが、ならば戦地、前線の将兵は、武器・弾薬乏しいのみならず、現地の疫病にも倒れていったはずだ。

無論、今なら医療ミス訴訟となったかも知れぬが、祖父、祖母たち遺族は、悲しみに沈みながらも長男(伯父)の葬儀一切を済ませた。
そしていっときは、店をたたんで「遍路の旅に出よう」とまで決めかかったそうだ。

私は何とかいうイニシャルの心臓復活装置が嫌いだ。
人の寿命が機械で往生際の悪さ、未練を復活させられている。
母を復活させられるなら、それまで摂らなかったはずの水分量範囲で、食事量で復活させ、元気にさせてあげたい。―特記終―

私の生活も不規則だが、日曜日は母の水分補給に意識を向けたせいか、夜8時ごろベッドで眠りこけ、目が覚めると、テレビで「男たちの大和」をやっていた。
三時間余り眠りこけたことになる。

のち起き出してこの記録をつづる。
夜中の二時ごろ、階下の母の様子を見にゆく。のどの様子を問うたら、のどがかわいたと言うので、カロリーメイトココア味の残りピタリ100ccをコップに移す。
ここまでを合計して良いなら、合計680cc。

母は実に飲み干した。おいしいといいながらだからのどもかわいていたのだろう。
自力で自発で水分を摂れないのが悔しいことだ。

亡きコラムニストの山本夏彦氏によると、太古の恐竜は巨大になり過ぎたがために滅びた。くだくだしい科学の理屈よりもうなずける気がする。

そして山本氏は、人は脳みそが巨大になり過ぎたあげくに滅びるという。
これもなにゆえか首肯出来る説得力を持つ。
天の創造物最大の失敗作は人類である。今は我々人間が苦しんでいるが、そのうち天が苦しみ悩む時が来るべきだ。

この世は生きるに値せぬところだ。
西岸良平氏の漫画にこんなのがある。
ある星の住人の死は、病でも衰えでもない。ある日次第に身体全体がだるくなって来て、やがて眠りながら最期となる。

西岸氏の漫画は、地球を訪れたこの宇宙人が、老いてゆく地球人の変化のほうが自然だと思うように描いているが、私は反対である。

亡き祖母はよくこう言った。「この世は苦の娑婆だよ」と。
我が村松家にはこの血が継がれていると思う。他人がどう思おうとかまわぬ。




母の介護記録080920土曜日

午前9:30過ぎ、父に起こされて母のオムツを交換。
てのひらにいっぱいの量のやや硬めの便、一かたまり出ている。ズッシリ重い。
その他周囲にもたくさんつく。お尻の穴からまだこれは軟らかい感じの便が出て来るので、排便がとりあえずとまるまで拭く。寝巻きも左手もよごれている。

下の処理と共にじょく瘡処置。依然改善せず。このあと、水、カルピスあわせて150ccほど飲む。プリンを食すも、二口で「要らない」と拒否。
医療の理屈通りにゆくものか。

寝床のよごれを除くため、飲食のあいだ、車椅子に移乗。私は手際がヘタで母が「痛い」を連発。
検温6度ジャスト。

薬用石けんで母の手を洗う。無論ほどなくまたかいたりして、便のニオイがついたが。
ここまでで正午ごろになる。ベッドに移り、横になる。脈拍73。

午後三時ごろカルピス100cc余り。やはり途中で「要らない」と拒否。当然なり。
父、彼岸ということで菩提寺へゆく。この時の草取りの作業で参った様子。
午後4時ごろ、カルピス100cc弱。「もう要らない」と拒否。

これをしも無視して強引に飲ませるべきや ! ?
午後四時半、カルピス残りを飲み干す。
4時と四時半の合計150cc。ここまでの合計400cc。

6時過ぎ夕食。おかゆを茶碗に半分以上食す。すぐに歯磨き。この時口をゆすぐため水をふくむが、ゆすいだあと吐き出すことが出来ず、ゴクンと飲む。良く解釈すると水分補給になる。これが夕食時の水分とあわせて100cc余り。
計500cc余り。1000ccなぞ無理だ。

脱水で死ぬというならそれも結構。私たちは母を殺そうとしてなどいない。
なお、母は前夜と今夜、仰向けの姿勢から両手で支えて、自力で上体を起こした。
少なくも弱っていることはあるまい。

さらに寝相が悪くなり、前夜、真ん中近くに寝かせても、翌朝、オムツ交換に階下へ降りると、必ず両足をベッドから落としている。

毎日がハラハラのしどおしだった頃からすると、今、つかの間にしろ、介護をあせって行なってはいない。
あるいは看護師さんの摘便処置のおかげで、お腹がスッキリし、便通も良くなったようにも思える。





母の介護記録080919金曜日

午前九時過ぎオムツ交換。一日ほどそのままにしたためか、尿多し。重い。父はケチだ。こいつの言いなりになるまい。バカヤロウ。

前日看護師さんの摘便処置が充分だったおかげか、あるいは残便が誘発されたか、ほとんど便がつかなかった初めの頃より確認容易な量、つくようになった。
ただし母は便秘気味のため、今後はわからず。

検温6.4度。脈拍60ほど(一時間後も同じ)。
コップの水・お茶あわせて100ccほど飲む。「もう要らない」と拒否する。ストローの使い方が先日のようにうまくゆかず、私はややキツク言った。あとで謝ると、ニコッとして首を横にふった。
睡眠、覚醒のくり返し。

本日は会話をする。
「カイとクワかねえ」と問うので、「花」の一部を聴かせると面白がる。
正統派歌手・中沢桂(なかざわ・かつら)の「庭の千草」の話をしたら懐かしがる。

クッションを抱いているので「縫いぐるみを抱くかい」と言うと「何言ってるんだい」と笑われる。

顔を近づけると私の頭をなでる。「あんたと話が出来るから楽しいよ」と言う。このあたり、気づかう母親の気持ちが感じられて、いっそ可哀想だ。

午後三時前後、何人かバタバタと来宅。気ぜわしい。
ケア・マネージャー(以下ケアマネと省略)が「脱水です」とやや興奮気味に言う。

カロリーメイトのココア味を巧みだが強引に母にひと缶(200cc)飲ませる。
その後熱が一気に下がって6.2度になる。

だがいつまで母が順調に飲む力を維持するかわからない。
元々母は飲食共にガツガツしないタチだ。
唇が小さめということも関係しているかどうかわからないが、ゴクゴク飲むほうではない。

それでも大好きなお茶はよく飲んだ。それも程よい量。
この容態になって急激に量を多くして、これが母の回復の大なる力となるのか ?

未だ疑問をねぐえぬ。ならば介護サービス一切を引き上げると開き直られるも良し。
自然が一番と私は思う。

無論、医療の立場からは間違ったまたは不十分な介護になろうが、母は毎日ゆったり過ごしている。

なお、夜十一時過ぎ、検温すると7度近いので、急きょ水、カルピスを飲ませる。
100cc余り飲んだかというところで数回検温するも7度近くは変わらず。むしろ次第に上がり、7度に達する時もあった。

さらに水を飲ませて検温。6.6度を確認。
何か人工的一時しのぎを感ずるが、出来るだけ今の状態維持で、母と長く一緒にいたいので、母の機嫌をとりながら飲ませた。





勝手ながら訪問看護師と呼ぶ。またこの場所に名前を書くことは禁じられているので、美人看護師と呼ぶこともあるとしておく。

私は早くもダウンし、朝早く(午前7時ごろ)母のオムツ交換と便の始末などをしたあと、二階の自室ベッドで眠りこけたので、美人看護師さんの訪問処置を知らず。記録して下さった文章を抜粋しておく。表記、原文のまま。ただし、実名は伏せ、ところどころ註釈。以下抜粋。


9/18 9:00~  訪問看護○○(私は初めこれをうっかり訪問看護としよりと読んでドキッとした) ○○(美人看護師さんの名前)

体温36.7℃ 脈88(68か?) 血圧92/60
節子(呼び捨て。何んでかしら ? きっと忙しくて書かなかっただけよね)。ごきぶんもいいようでした。

会話もされています。

肺の音、腸の音、良好です。

右の腰の床ずれ、処置しました。
明日、ガーゼ交換して下さい。

便が(硬い便)たくさんあり、摘便しました。
たくさん出しています。おしりのただれ等ありません。
おしりの洗浄しています。

以上抜粋。

以下。私の拙い記録をつづっておく。

午後一時ごろ、ベッドに腰かけて、敬老の日にもらった例の小粒のまんじゅう二つ食べる。コップの水100cc余り飲む。
検温6.4度。脈拍72。

ほどなく、またこれは珍しく「横になりたい」と訴え、眠そうでもあるから、寝かせると、時々大きな音や変わった音には目ざとい様子だが、すぐ眠る。

午後五時ごろカルピス少々飲む。脈拍70。体温6.8度。脱水気味か。カルピス少々飲む。

午後5時45分ごろ、両足の付け根が痛いと言う。5時50分、体温6.9度。
午後6時15分ごろ、カルピスを飲んで検温。6.7度。カルピス容器、ほぼカラになる。

午後6時過ぎ、夕食。いつものおかゆ(卵入り)、茶碗の半分以上を食べる。
午後8時ごろ検温。6.4度。ただし脈拍76。

本記録、ここまで書いたところで時刻午後8時半過ぎなり。

なお、美人看護師さんは本当にきれいなかたである。写真撮れないのが残念。
こんな不届きなことばかり書くから、遊び人と言われるのか・・・。



080917

元々介護を要請計画したのは私だが、この数日間、威勢の良い人々が入れ替わり立ち替わりの出入りで疲れた。

一段落すればまた日常に近い生活環境が戻ろうが、今になって私は、母の衰えに対して善美を尽くした介護サービスが適切な選択だったのかと、疑いが出ている。

蓋(けだ)し、私は人嫌いである。
介護の世界の人間は、押しが強くなければならない。
だが、有料の介護一式を依頼することとなると、むしろわずらわしさがモクモクと煙のわく如く広がって来る。

押しの強いそれゆえしっかりした仕事をしてくれる人の視線がきょう17日初めて私に向かず、父にばかり向いているのを、しっかり確かめた。
その思惑がどうあれ、これまで母の世話の言わば「ソフト」の部分を、つまりオムツの取替えと尿・便のふき取り、使った手ぬぐいの洗濯、母に話しかけることなどをずっと続けて来た私の労苦を無視されたようで不愉快である。

この手の人間は、必ず凄絶な迫力に満ちた言い訳を、見事な理論と経験による武装で固めているから、かなわないが、過去数十年のあいだ、私は人との話のかけ引きで常にけおされ、負けて来た。

父をたてたのか、父の言い分を見直したのか、私が無職、無収入なのを見下したか知らぬが、そうまで見られてまで腰を低くしているほどお人好しではない。
母が再び立ち上がり自力で歩く日が来ないとしたら、それは、原因は骨粗しょう症、認知症、脱水症状等、いろいろあろうが、不愉快な気分をこらえてまで、回復の見込みのない母を介護してもらう心の余裕はない。

母は真夏の脱水症状が直接の原因で急激に衰えた。
不健康な推測だが、母の脳裏にそれこそ己れを認知出来る意志があるなら、「ひろちゃん、もうお母さんの必要な生活は終わったということにして欲しいよ。そろそろ安楽に暮らせる――おばあちゃんやあんたのお兄ちゃんのところへ行って、お母さんも心穏やかに村松家の人々と過ごしたいんだけどね」と言うような気持ちさえする。

ただいまより、母の記録を取りやめる。


母の介護080915

市の職員が認定調査に来るというので、夜中のうちにオムツをかえておいた。
検温6度3分。脈拍67。

午後一時半、ケア・マネージャーの先生がみえる。
今後の在宅介護の相談など詳しい話をする。父と先生だけの話もあり。

そのかん、日曜日以来2日ぶりに母を車椅子に乗せる。
だが看護師を呼ぶてはずとなり、そのかん待つが長くなり、母が疲れたと言うので、私が寝かせる。

このとき「じょく瘡}の具合をみようとテープパンツをはずしかかったら、便が出ていた。これはますます傷に悪いと思い、急いでオムツ交換のため、手ぬぐいなどを用意するが、便器にたっぷりというほどでないものの、初めて母のお尻を手ぬぐいでふくと、便がべったりついたので、手ぬぐいを二枚使って間に合わせとしてふく。

新しいオムツに替えて、洗濯出来るものは手洗いし、二階アトリエ兼物干し部屋にほす。
そうこうするうちケア・マネージャーの先生がみえるが、看護師は来ないとのこと。

やや肩透かしを食った感じがするが、父に同行してもらい、私は洗濯を何着かする。
洗濯機を待っていると着替えが間に合わないので、これも少し汚れたズボンだけ手洗いして干す。

なお私の昼食はマーガリンをぬった食パン三枚。

暗くなって母帰宅。「じょく瘡」はさほど心配ないとのことで、塗り薬をもらう。
七時ごろ夕飯。おかゆをさじに10杯食べる。
又。この日はノドの渇きを訴えるたびに水やお茶をよく飲み、水分補給がいくらか充実した。

そういう私は塾の授業を10時ごろ終えてからいつもの遅い夕食をとったあと、音楽を聴こうと用意したまま猛烈な睡魔に、教室の床に大の字に寝て、そのまま深夜二時ごろまで眠りこけた。

そのあとベッドに入るも眠れず。既に16日の朝である。

1 2 3

 

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

最新のコメント

この日記について

日記内を検索