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ダイアリーノートを見て、改めて気づいたのはうかつでした。
ここには、ブログではなく日記、画像ではなく、写真と明記されています。
元々ブログなどとは呼びませんでした。

出来ればいつまでも、この言葉を残しておいて欲しいと思いました。
さて、写真は、私が兄と死別したあと、一年余り神経を痛めて悪心や吐き気に耐え続けたあげく、平成8年10月いっぱいで、当時経営していた塾を休業せざるを得なくなり、入院して、何んとか回復しつつあった最後に作った、幼児向け雑誌の付録です。

この頃、母は私に付き添って、長椅子か何かをベッドがわりにして、ずいぶん寝にくい姿勢で、連日私のベッドの横にいてくれました。
そしてこの組み立て付録が完成したある晩、初めは二人で、この付録のゲームを楽しんでいましたが、何が原因だったのか、私と口論になり、この夜は母は横になることもせず、夜中じゅう上半身を起こして起きていました。

恐らく悪いのは私だったはずです。折から、向かいの個室のドアが開けっ放しにされ、おおぜいの人が出入りしていました。その部屋のベッドに臨終間際のお年寄りと思われるかたが横たわっていたようです。

母は、一睡もせずに、ずっとその部屋の様子を見ていました。
もはや私が母に休むよう勧めるムードではなく、ゲームに興じてくれていた母の気持ちをいたく傷つけてしまったところへ、向かいの病室の風景が見えたので、母はいつまでも見続けていました。

その時から17年後の朝、認知症に伴う衰弱で、母は帰らぬ人となりました。
こじつけるようですが、母はあの夜、自分のやがて来たる運命と、向かいの病室の臨終間際の人とを重ねて見ていたのかも知れないと思います。

私という出来損ないの息子の世話を熱心に続けてくれたあげく、母は衰弱激しい症状に耐えながら、最期まで笑顔を絶やさずに、介護にも明るい姿勢を貫いて、この世を去りました。

組み立て付録は、入院中に退屈を紛らわせるために、何十個と作りましたが、退院後、ほとんどを処分しました。
ただ一つだけ、親不孝の連続に終わった私は、母の無償の愛情を忘れまいと、写真の付録ただ一つを捨てがたく、本棚の上に残しました。

言わば自らを戒める気持ちで残した付録です。


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