4月1日、母の散歩
4月1日、母の散歩
短いようで長い自宅介護の歳月だった。
2008年8月終わりごろ、母は認知症による食欲減退、体力低下が一気に顕在化して、即時、かかりつけ医院への入院となったが、ほぼ5日間の点滴で、食欲の極端な低下は、少しずつ好転していった。

さらに実力派のケアマネの人が介護保険適用その他の手続きをしてくれたおかげで、デイ・サービスという、文字通り昼間だけ預かって昼食・機能訓練・入浴・娯楽などを提供してくれる施設に通うまでに回復、当時、その施設の所長でもあったケアマネの人のおかげで、年末1ヶ月ほどの最適の機能回復処置により、母は自力歩行可能なまでに回復し、翌年2009年冬の審査を経て、いっとき要介護度は「4」と下がった。

最高数値は「5」で、全面介護、介助なしではバイタルサインと呼ばれる血圧・脈拍などの体調維持は困難である。
母に関しては、数値「4」の時、姓名・生年月日を言えた。

母がいつ「5」に上がってそのままになったかは忘れた。
もちろん、「5」の時も、食欲・体力はかなり良好に保たれた。
これも今冷静にみれば、ケアマネの活動とその人が経営することになった新たなデイ・サービス・センターのおかげである。

冷静にと書いたが、このケアマネは、確かに精力的・行動的であり、積極的だが、それだけに家族からみると反感を覚えることも少なくなかった。
ただ、このケアマネの一貫姿勢が評価出来る。

例えば口調は強いが、最終結論は、自説を潔く取り下げてでも、家族の意向を尊重する。
そのぶん、あとになって家族に後悔・反省が生ずる。

一見、当たりの柔らかいケアマネが、実は母や家族にとっては、余り先見的に見えない現実も見た。
件(くだん)のケアマネが経営する施設のポリシーは実態をつぶさに見たわけではないものの、本人の断固たる主張から、推測出来る。

すなわち、職員に徹底的に厳しいとの指導方針である。また、家族に時にビシッとものを言うことはあっても、母のような利用者にはこれまた徹底して優しい。
当初やかましいと思ったこの人の地声の大きさも、この仕事の世界では大なる長所である。

家族はとりあえず健常人である。ゆえに利用者本人に代わって強く意見を言うのも無理ならぬことである。
2008年9月から本格的にケアマネとして母の介護体制に入り、2011年、12月28日まで、連続して母のあるレベル以上の体調維持を果たしてくれた。

今の母は晩年に入っていることは否定出来まい。生活感のない特養で、次第に衰えつつある。
私は今後、母に無理を極力させぬように見守る方針である。

さて、4月1日の夕方、母はいくらか元気にみえたから、軽い館内散歩に出かけた。
車椅子を押して、隣接する別の部屋の窓辺にゆき、しばらく母に外の景色を見せる。母は、散歩となると、確かに目をパッチリあけて、窓外の様子を眺める。

次にエレベーターで一階の大広間のようなところへ出て、ここでも窓辺に寄って母に景色を見せる。
母は、何やらつぶやいて、息切れしたように言葉を継げなくなるのが現状だが、外を見ながら何か言うのだから、母にある程度の体力があるうちのこの散歩は無駄ではあるまい。

大広間を一周して再びエレベーターで元の三階の部屋に戻って散歩終了である。
今後、ベッドで寝ている姿を見るばかりの日もあろうが、さりとて必ず散歩に出かけることを目指そうとは思わない。

母の体調に合わせることが肝要と心得るからだ。
この日はおやつも全部食した。
かつて杉田のおばさんと呼んで親しんだ感じのいい婦人も、84で心筋梗塞の発作で亡くなった。

母は、身体が頑丈でない割には、このおばさんの寿命を越えた。
あとは一日一日、母の容態に一喜一憂する日々の繰り返しである。
母にも私にもこれが運命である。

上掲画像二枚とも、3月23日のもの。

コメント

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

最新のコメント

この日記について

日記内を検索