春3月、「水師営の会見」未だ忘れず
2013年3月23日 日常母の衰えは例えば食欲に顕著であり、その結果が体重の漸減として表われている。
残念だが現実なれば是非もない。
昨年2012年夏、朝霧高原の「花鳥園」に遠足に行った元気は、今年の夏は無理かも知れぬとも予感している。
我が直系尊属をたどるとは言っても、私には祖父母までしかある程度の情報はわからない。
祖母の両親、さらにその両親くらいまでは、ごくおおざっぱな存在はつきとめられたが、寿命となると、もはや知るすべがない。
知る限りで最も長命したのが2011年に死んだ父である。
入浴中の不慮の事故がなければ、88の米寿までは何んとか生き続けたとは思うが、父は最後の日まで、とりあえず食欲があり、何より晩酌の支度を欠かさぬ生命力があった。
ひるがえって、母は認知症が大きく阻んで、食欲という本能を失いつつある。
3月23日(土)現在では、昼食後に出るオヤツのクッキーなどをほとんど食べるという食欲はあるものの、「お母さん、あーんして」と何回も促してようやくといった現状である。
前歯がだいぶ欠けた母が、それでも奥歯でお菓子をかむ音を聞くだけで、いくらかホッとするのは正直な気持ちだが、入所当時45キロほどあった体重はおよそ41キロに減った。
母の食欲に回復という奇跡的変化を期待するのは多分無理だ。
ただ、この日、陽気もポカポカして、そろそろ館内を散歩出来ると思った私は、母をしばらくぶりに、一階の大広間に連れて行った。すると、窓辺に近づいた母は、一心に外の景色を眺める。
冬のあいだは、インフルだ風邪だと、施設側がうるさかったから我慢していたが、母の部屋のあるリビングで車椅子に腰掛けさせていると、すぐにウトウトしてしまった。ところが、この23日の館内散歩のあいだ、母はうとうとすることなく、ずっと目をあけていた。
一階だけではない。何しろ傾いた日が強く、館内廊下にいる限り風にあたることがないので、夏の暑さのように日差しを受けて汗ばむほどだ。
三階廊下の突き当たりの窓辺でも、日差しを浴びながら、母はずっと外の景色を見つめていた。
やがて別のところへ移動し始めるころ、しばらくごぶさただからと半ば観念しながらも、私は車椅子の母の背中に向かって、母がただ一曲口ずさむ「水師営の会見」の2番の出だしを歌ってみた。
「庭にひともと・・・」である。すると母はテンポも合わせるような確かさで「なつめの木」と歌ってくれた。
私は車椅子をとめて、母に向かってしゃがみ、「お母さん、凄いね。一発で歌の続きが出たね」と肩をなでて礼ともほめ言葉とも言えるひとことを返した。
「水師営の会見」は私の世代でさえ、果たして何割が歌えるかというほど、古い軍歌であり、かつての小学唱歌である。
あと何回散歩が出来るか、そして、いつまで「水師営の会見」の歌詞が出るか、未練になるが、母の遠い日の記憶がどこかに残っている不思議さをも感じつつ、一日一日を祈る思いで過ごすこのごろである。
残念だが現実なれば是非もない。
昨年2012年夏、朝霧高原の「花鳥園」に遠足に行った元気は、今年の夏は無理かも知れぬとも予感している。
我が直系尊属をたどるとは言っても、私には祖父母までしかある程度の情報はわからない。
祖母の両親、さらにその両親くらいまでは、ごくおおざっぱな存在はつきとめられたが、寿命となると、もはや知るすべがない。
知る限りで最も長命したのが2011年に死んだ父である。
入浴中の不慮の事故がなければ、88の米寿までは何んとか生き続けたとは思うが、父は最後の日まで、とりあえず食欲があり、何より晩酌の支度を欠かさぬ生命力があった。
ひるがえって、母は認知症が大きく阻んで、食欲という本能を失いつつある。
3月23日(土)現在では、昼食後に出るオヤツのクッキーなどをほとんど食べるという食欲はあるものの、「お母さん、あーんして」と何回も促してようやくといった現状である。
前歯がだいぶ欠けた母が、それでも奥歯でお菓子をかむ音を聞くだけで、いくらかホッとするのは正直な気持ちだが、入所当時45キロほどあった体重はおよそ41キロに減った。
母の食欲に回復という奇跡的変化を期待するのは多分無理だ。
ただ、この日、陽気もポカポカして、そろそろ館内を散歩出来ると思った私は、母をしばらくぶりに、一階の大広間に連れて行った。すると、窓辺に近づいた母は、一心に外の景色を眺める。
冬のあいだは、インフルだ風邪だと、施設側がうるさかったから我慢していたが、母の部屋のあるリビングで車椅子に腰掛けさせていると、すぐにウトウトしてしまった。ところが、この23日の館内散歩のあいだ、母はうとうとすることなく、ずっと目をあけていた。
一階だけではない。何しろ傾いた日が強く、館内廊下にいる限り風にあたることがないので、夏の暑さのように日差しを受けて汗ばむほどだ。
三階廊下の突き当たりの窓辺でも、日差しを浴びながら、母はずっと外の景色を見つめていた。
やがて別のところへ移動し始めるころ、しばらくごぶさただからと半ば観念しながらも、私は車椅子の母の背中に向かって、母がただ一曲口ずさむ「水師営の会見」の2番の出だしを歌ってみた。
「庭にひともと・・・」である。すると母はテンポも合わせるような確かさで「なつめの木」と歌ってくれた。
私は車椅子をとめて、母に向かってしゃがみ、「お母さん、凄いね。一発で歌の続きが出たね」と肩をなでて礼ともほめ言葉とも言えるひとことを返した。
「水師営の会見」は私の世代でさえ、果たして何割が歌えるかというほど、古い軍歌であり、かつての小学唱歌である。
あと何回散歩が出来るか、そして、いつまで「水師営の会見」の歌詞が出るか、未練になるが、母の遠い日の記憶がどこかに残っている不思議さをも感じつつ、一日一日を祈る思いで過ごすこのごろである。
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