父死す
もうずいぶん前には、父の早からん死を願う如き日記を書いた。
父とは確かにソリが合わなかった。

げんきんなものだと言われるかも知れないが、死に様が哀れだった。
今年の1月26日に市役所への方角がわからないまでに、初期の認知症らしきものが出ていて、全く方向違いの段差のところに前両輪脱輪して物損事故を起こし、その後始末は私がやることとなった。

父本人に責任能力がないことを知ってショックを受けた。頻尿も進み、あるいは段差に落ちた衝撃も身体を損ねたかも知れない。
最近の父はめっきり衰え、私に対しても穏やかになっていた。

父はその自損事故からわずか10日後の2月6日、日曜日、湯船で溺死して果てていた。
私は真っ先に疑われ、刑事第一課、すなわち殺人課の刑事が「検案」で数時間拘束した。

自力で湯船に入るべきではなかった。しかし何時に入り、死因に至る本当の原因は何か、不明のまま、検案は終わった。

葬儀は私一人が斎場へ赴き、費用わずか15万円ほどの粗末な処理となった。
両親と私三人が、皆元気な時に決めた質素な葬儀だった。

四六時中、家族に横暴な振る舞いを働くものでない限り、87の老骨に鞭打つ如き身体の衰えを耐えて遂に果てた父の断末魔の苦痛はいかばかりか。

生前は確かに憎むことも多々あったが、不思議なものだ。
毎週のゴミ出しと台所の流しの始末を欠かさなかった父の姿がもはやない。

お骨(こつ)になった時、係りの人が父の骨の丈夫さに驚いていた。
旧陸軍士官学校で鍛えた身体は、おそらく私より強じんだった。

骨折経験はなかった。70歳で仕事をやめたあとも、シルバーの仕事を80過ぎまで続け、残る私たちの預金に貢献した。

あのまま生き続ければ、さらに私が尻拭いを強いられる迷惑も増えたことは想像出来る。
それでも繰り返し不思議なものだ。父の生活空間に、その姿がないだけで、家がぐんと広くなった。寂寥感(せきりょうかん)が漂うとは予想もしなかった。

父は、叙情歌とも言える「真白き富士の嶺(ね)」を聴いて「何んとも胸がしめつけられる」と言い、「雪の降る町を」を愛好歌の一つとしていた。

口論絶えぬ時、私は「おまえが死んだら、骨壷は物置に放り込んでおくぞ」と激昂したが、今や、納骨の時、村松家先祖累代の墓に埋葬してあげようと即座に決めた。
生涯大好きだった酒を墓に供えてあげようとも思っている。

コメント

せきやん
2011年2月14日1:28

通りすがりのものです。
ビックイしましたー
心よりお悔やみ申し上げます
御霊の永久の安息をお祈りいたしております。
息子は山口の教師をしてまして
ここんとこ音信を絶ってまして
お気持ちよくわかります。
お元気出してお父様と思う存分御むき合い下され。
男同士はどうにも親子関係がむづかしいですね。
お元気お出しくださいましー。
ご無礼の段はお許しください。

myoldhome
2011年2月14日5:13

「せきやん」さん、コメント本文、胸にしみました。
お心遣いの感じられる内容に、感激致しました。

ありがとうございました。

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