080917

元々介護を要請計画したのは私だが、この数日間、威勢の良い人々が入れ替わり立ち替わりの出入りで疲れた。

一段落すればまた日常に近い生活環境が戻ろうが、今になって私は、母の衰えに対して善美を尽くした介護サービスが適切な選択だったのかと、疑いが出ている。

蓋(けだ)し、私は人嫌いである。
介護の世界の人間は、押しが強くなければならない。
だが、有料の介護一式を依頼することとなると、むしろわずらわしさがモクモクと煙のわく如く広がって来る。

押しの強いそれゆえしっかりした仕事をしてくれる人の視線がきょう17日初めて私に向かず、父にばかり向いているのを、しっかり確かめた。
その思惑がどうあれ、これまで母の世話の言わば「ソフト」の部分を、つまりオムツの取替えと尿・便のふき取り、使った手ぬぐいの洗濯、母に話しかけることなどをずっと続けて来た私の労苦を無視されたようで不愉快である。

この手の人間は、必ず凄絶な迫力に満ちた言い訳を、見事な理論と経験による武装で固めているから、かなわないが、過去数十年のあいだ、私は人との話のかけ引きで常にけおされ、負けて来た。

父をたてたのか、父の言い分を見直したのか、私が無職、無収入なのを見下したか知らぬが、そうまで見られてまで腰を低くしているほどお人好しではない。
母が再び立ち上がり自力で歩く日が来ないとしたら、それは、原因は骨粗しょう症、認知症、脱水症状等、いろいろあろうが、不愉快な気分をこらえてまで、回復の見込みのない母を介護してもらう心の余裕はない。

母は真夏の脱水症状が直接の原因で急激に衰えた。
不健康な推測だが、母の脳裏にそれこそ己れを認知出来る意志があるなら、「ひろちゃん、もうお母さんの必要な生活は終わったということにして欲しいよ。そろそろ安楽に暮らせる――おばあちゃんやあんたのお兄ちゃんのところへ行って、お母さんも心穏やかに村松家の人々と過ごしたいんだけどね」と言うような気持ちさえする。

ただいまより、母の記録を取りやめる。


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