独りなり
2007年11月17日
すぐ前の日記に続けてこの日記では、他人の目にはこっけいとも映るかも知れない。
だが、55を目前にした今、まさしく急転直下の身辺変化のザマを書いておく。
なお、楽天日記に比して、余りにも更新頻度が低いが、閉じる予定はない。
楽天日記に書きたくない本心を書ける利点はおおいなるものだ。
さて結論。
腐れ縁もいよいよここに極まれりと言うべきか、別の言い方がふさわしいのか、文才とは無縁なのでわからないが、ともかく私は独り身になった。
平成初年、離婚直後のごたごたで何かと物入りだった彼女を助けるべく、私はたまたま塾経営が潤っていたので、月々の収入の余りをさらに貯めて、別れた男から慰謝料などを取れない破局を迎えた状態の不利を補った。
だが皮肉なもので、年度末で塾の収入が激減する予測で毎年試算した我が収入がおよそ35万円。「こんなみじめな月収になるとしたら、つくづく売れない個人塾とは、因果な商売だ ! 」と、グチを言ったのがウソのように、状況は激変した。
彼女は当時、20万円台の後半程度の月収だったが、それでも悪くはなかった。
星移った今、その額は30万円を優に超えるものとなった。
つまり、かつて私がグチを言った金額程度に上がって、家計はまずまず安定している。
言うまでもないが、常の日記なら、冷静に心に映り行くことをつづれるが、事が事ゆえ、とりとめない文面になる予感もする。仕方ない。
時をさかのぼる。ただし、これでも本人のプライバシーに配慮の必要があるので、年度などはボカす。
平成4年ごろ、夕子と夫君の仲が修復不可能なまでに険悪になった。
この時私は彼女と再び付き合う仲となっていた。夫君の知るところともなっていたが、世間によくある「俺の女房寝取ったな ! 」というような刃傷沙汰になる気配は微塵もなく、それが冷え切った夫婦仲の証左ともとれた。
私は短兵急なところが大きな欠点の一つだが、この時は珍しく打算が働いた。いや、打算と言うべきかどうか。母に相談してみた。母は初め、夫婦不仲の夕子に同情的だった。母自らの苦い経験も手伝ったと私はみた。
だがさすがに肝心なことになると、母は頭の回転の速さを示した。
「子供を作る行為にだけは注意しなさい。あんたが、何の罪もないあんたが、貧乏くじ引かされないとも限らないからね」
母の言う通りだった。私も母の言葉を自らの考えの念押しととらえた。
逢うたび、夕子は激しい動きを示して、私はなにゆえか、そこに彼女の意図を感じざるを得なくなり、私のほうは、動きが鈍くなった。
この鈍さを彼女は敏感に察した。
「30になるまで、なぜ子供を作らなかった ? 」
逢うたび、はぐらかされ続けた質問だが、もとより冷えかけた頃の結婚生活だったゆえか、夫婦の営みの回数も、自然減って歳月を重ね、寝室もある時から別々になったから、子供が出来る機会・可能性は確かに減った。
「どっちが原因だかわからないし、調べてもみてないけど、とにかく子供が出来ないのよ」
これがようやく聞くことが出来た答えだった。あながち作り話とも思えなかった。
私の兄夫婦も、なかなか子供が出来なかった。排卵誘発剤を使ったかどうかは聞き逃したままだが、その後第一子が誕生すると、たちまち数年のうちに全部で三人の男子をもうけた。
私は「家庭内別居同然では、子作りなんぞ、する気も起きないか ? 」と、答えを聞くまでもないことを問うた。意外な答えが返って来た。
「あたしにも、うまく彼の心理分析が出来ないんだけど、こうしてあなたと不倫してることを、全く気にしていないわけでもないみたいなの」
つまり、どういうきっかけを作ってのことか、わからなかったし、聞く気にもなれなかったが、夜の営みはあるのだということだ。
私は複雑な気持ちにならざるを得なかった。抽送運動にも力が入らなくなっていった。
私は彼女との逢瀬を重ねるつど、性行為をしても、射精することが少なくなっていった。正確には安全日の確認をし、そうでない時は、私は射精せず、彼女だけがオルガスムスに達した。
こうなると、私と彼女との仲もぎくしゃくして来る。
「しばらく冷却期間を置きたい」と彼女がある日言い出した。
私は彼女をタチの悪い女とは判断したくなかったが、この時は打算と奸智を思わざるを得なかった。
「なぜ子供を欲しがる ? 」との私の問いに「そんなつもりはないわ。ただ、冷えた仲のあの人とでなく、あなたと思い切り燃えたかったの」と、否定しつつ、素直には信じられない答えが返って来た。
冷却期間を置くどころではなかった。彼女に子供が出来た。彼女から連絡があり、会ってくれとの頼みを受けたが、イヤな予感がした。
ところが「安心して、彼の子よ」という答えだった。
女の浅知恵という言葉がある。私と彼女の夫君とはかたきも同然で、まず会うことはほとんどないはずだと、彼女は思っていた。
夕子の夫君をほめるわけではないが、彼は妻の不倫相手に凄みをきかせるような、レベルの低いチンピラではない。私たちは、夕子の留守を周到に確認して、男同士会って、夫婦仲の修復のことを話し合っていた。ただし、夕子の目も鋭いので、ほんのわずかしか会えなかった。これが言わば命取りとなった。
「村松さんはあいつにだまされましたね」と聞いた時の戦慄は凄かった。
確かに夫婦仲を何とか良くしようとはしていたが、夜ごと同衾するムードはさすがに作れなかったと初めて聞かされた。
「品のない言い方ですが、私のタネは入っていませんね」
私は頭が混乱した。私とて、用意周到に性行為に臨んだ。それなのに、私との性交で妊娠したという・・・。
一つ思い当たることがあった。コンドームを使う必要があった時、つまり安全日でない期間だったのだが、私は彼女だけを絶頂に導き、それを数回繰り返した疲労で、眠ってしまった。
目が覚めた時、私の股間にコンドームはなかった。眠っているうちに、一物はなえ、それを彼女が取り去って捨てたのだと知らされた。
私はこの時、彼女が何かをしたとは思わなかった。私は彼女だけを数回絶頂に達せしめた最後に射精し、そのまま眠りこけてしまった。
これ以上推理はしたくないが、夕子は産むと決めた。私には「産む」と主張したように聞こえた。
私は彼女の腹が大きくなってゆくのを見たくなかったから、再度「決別」を宣言した。
前後して冷え切っていた夫婦は離婚した。離婚後300日以内の子は前夫の子と認める法律があるが、私は二人の正式の離婚成立の日を知らされて、この法律に当てはまると思った。
だが現実は前夫は、彼女たちのもとを去り、子供は言わば不倫の子かも知れないので、前夫は被害者と言えた。彼に離婚後の責任は問えないとしか思えなかった。
もう少し詳しく書くと、二人とも起居を共にした部屋には居たくないということで、共々別の部屋を求め、そこに落ち着いた。なお、不倫の子という前夫の強い主張で、慰謝料ゼロを決めてあった。さらに現在は前夫の住んでいるところはおろか、消息さえわからない。
彼女はいきなり母子家庭の母となった。当然ながら借りる部屋のグレードを一挙に下げた。それでも落ち着くまで、何かと物入りのようで、私は向こう一年ぶんの家賃を、四回に分けて送金し、しかも返済せざるべしとの条件をつけた。
星移って、箱根峠で私たちは再会した。1999年、平成11年秋である。
彼我の収入事情は正反対となっていた。
彼女の一粒種は、小学低学年に成長していた。『別居』という基本条件で、交際復活となった。条件はほかにもある。たとえば。夕子は我が家に必ず来ない。
これは生涯独身の私の前途を案ずる両親が、彼女たちに働きかけて同居させる可能性を私が恐れたからだ。同居は事実婚の形になる。そうさせないよう、図ったのである。
子供は私になついてくれたが、去年2006年春、中学三年になってしばらくする頃から、私を嫌悪の目で見るようになった。
詳しくは措(お)くが、私はもはやこれまで、潮時と察した。
子供とは、よく拳法を試合形式でやって来た。良いコミュニケーションだと楽しく思っていたこの武道がアダとなった。
ある時、教えた技を思い切りわき腹に蹴込まれ、とっさに起こった怒りの勢いで、私は子供の太ももを下段蹴りで強打した。
夕子の顔色が変わり、私に非難の大音を浴びせた。
蹴られた太ももがはれ上がり、子供は長いあいだ、ビッコを引いたらしい。
だが私は変わり者・父親失格などと非難されようとも、私の気持ちに間違いはなく、人情としても、不実な人間ではないと、今でも断じている。
私はこの、いずれの男の血を継いだとも知れず、またその子種について、怪しさも含めて、定かでないところのある事情で生まれたこの子供を、我が子といつくしむ気持ちが正直起きない。
残酷な言葉と承知で、最後に私を見下す目になったこの子に告げた。
「お前には間違いなくお母さんがいる。しかし、父親はだれかはわからない。お前の態度の豹変が反抗期のものであるにせよ、長年なつかれ、情も移りつつあった俺の思いを、お前の一撃が微塵に砕いた。俺にとって、お前は他人の子だ。
これはお前に蹴られた腹いせに言うのではない。ちょうどいいきっかけと思って言うのだ。俺はお母さんがお前をお腹に宿した時、正しい事情を詮索するより先に、堕胎するよう忠告した。子供は祝福されて生まれて来るべきだ。
俺は、いや、ここからは『おじさん』と呼ぼう。おじさんは、ある推理からお前を『コンドーム・ベビー』と・・・」
ここでさらに母親が声を荒げてなにやら大声で怒鳴ったが、私は平静を装って言葉をさえぎった。
「なぜ亭主と俺をテンビンにかけた ? 正式に離婚してから子供をつくっていれば、また事情も変わっただろうに。お前は幼稚な小細工で、コイツの子種を体内に入れて、生まれた子供が亭主似なら、仮面夫婦でも子供本位で暮らせると思ったようだが、甘い。元亭主殿は、『子供が嫌いだ』と告げた。
コイツがせめて俺になついてくれたら、俺も情が移ったのに・・」
と、私は子供に向き直って、
「今後、お前が事故死しようと病死しようと、おじさんは新聞・テレビのニュースを見た程度の関心しか起きない」
「じゃあ、これで帰るよ」
これまで何回も繰り返した言葉だったが、この時は別れを告げる言葉となった。
後日談 / 腐れ縁という言葉は、悪い意味に使うものらしいが、やや遠くに去った母子は、月日を経るあいだ、私との何年間を思い出したり、考えたりしたらしい。
もはや、親子として付き合うことはあるまいが、現在もメールなどでのやり取りを再開、続行している。
だが、55を目前にした今、まさしく急転直下の身辺変化のザマを書いておく。
なお、楽天日記に比して、余りにも更新頻度が低いが、閉じる予定はない。
楽天日記に書きたくない本心を書ける利点はおおいなるものだ。
さて結論。
腐れ縁もいよいよここに極まれりと言うべきか、別の言い方がふさわしいのか、文才とは無縁なのでわからないが、ともかく私は独り身になった。
平成初年、離婚直後のごたごたで何かと物入りだった彼女を助けるべく、私はたまたま塾経営が潤っていたので、月々の収入の余りをさらに貯めて、別れた男から慰謝料などを取れない破局を迎えた状態の不利を補った。
だが皮肉なもので、年度末で塾の収入が激減する予測で毎年試算した我が収入がおよそ35万円。「こんなみじめな月収になるとしたら、つくづく売れない個人塾とは、因果な商売だ ! 」と、グチを言ったのがウソのように、状況は激変した。
彼女は当時、20万円台の後半程度の月収だったが、それでも悪くはなかった。
星移った今、その額は30万円を優に超えるものとなった。
つまり、かつて私がグチを言った金額程度に上がって、家計はまずまず安定している。
言うまでもないが、常の日記なら、冷静に心に映り行くことをつづれるが、事が事ゆえ、とりとめない文面になる予感もする。仕方ない。
時をさかのぼる。ただし、これでも本人のプライバシーに配慮の必要があるので、年度などはボカす。
平成4年ごろ、夕子と夫君の仲が修復不可能なまでに険悪になった。
この時私は彼女と再び付き合う仲となっていた。夫君の知るところともなっていたが、世間によくある「俺の女房寝取ったな ! 」というような刃傷沙汰になる気配は微塵もなく、それが冷え切った夫婦仲の証左ともとれた。
私は短兵急なところが大きな欠点の一つだが、この時は珍しく打算が働いた。いや、打算と言うべきかどうか。母に相談してみた。母は初め、夫婦不仲の夕子に同情的だった。母自らの苦い経験も手伝ったと私はみた。
だがさすがに肝心なことになると、母は頭の回転の速さを示した。
「子供を作る行為にだけは注意しなさい。あんたが、何の罪もないあんたが、貧乏くじ引かされないとも限らないからね」
母の言う通りだった。私も母の言葉を自らの考えの念押しととらえた。
逢うたび、夕子は激しい動きを示して、私はなにゆえか、そこに彼女の意図を感じざるを得なくなり、私のほうは、動きが鈍くなった。
この鈍さを彼女は敏感に察した。
「30になるまで、なぜ子供を作らなかった ? 」
逢うたび、はぐらかされ続けた質問だが、もとより冷えかけた頃の結婚生活だったゆえか、夫婦の営みの回数も、自然減って歳月を重ね、寝室もある時から別々になったから、子供が出来る機会・可能性は確かに減った。
「どっちが原因だかわからないし、調べてもみてないけど、とにかく子供が出来ないのよ」
これがようやく聞くことが出来た答えだった。あながち作り話とも思えなかった。
私の兄夫婦も、なかなか子供が出来なかった。排卵誘発剤を使ったかどうかは聞き逃したままだが、その後第一子が誕生すると、たちまち数年のうちに全部で三人の男子をもうけた。
私は「家庭内別居同然では、子作りなんぞ、する気も起きないか ? 」と、答えを聞くまでもないことを問うた。意外な答えが返って来た。
「あたしにも、うまく彼の心理分析が出来ないんだけど、こうしてあなたと不倫してることを、全く気にしていないわけでもないみたいなの」
つまり、どういうきっかけを作ってのことか、わからなかったし、聞く気にもなれなかったが、夜の営みはあるのだということだ。
私は複雑な気持ちにならざるを得なかった。抽送運動にも力が入らなくなっていった。
私は彼女との逢瀬を重ねるつど、性行為をしても、射精することが少なくなっていった。正確には安全日の確認をし、そうでない時は、私は射精せず、彼女だけがオルガスムスに達した。
こうなると、私と彼女との仲もぎくしゃくして来る。
「しばらく冷却期間を置きたい」と彼女がある日言い出した。
私は彼女をタチの悪い女とは判断したくなかったが、この時は打算と奸智を思わざるを得なかった。
「なぜ子供を欲しがる ? 」との私の問いに「そんなつもりはないわ。ただ、冷えた仲のあの人とでなく、あなたと思い切り燃えたかったの」と、否定しつつ、素直には信じられない答えが返って来た。
冷却期間を置くどころではなかった。彼女に子供が出来た。彼女から連絡があり、会ってくれとの頼みを受けたが、イヤな予感がした。
ところが「安心して、彼の子よ」という答えだった。
女の浅知恵という言葉がある。私と彼女の夫君とはかたきも同然で、まず会うことはほとんどないはずだと、彼女は思っていた。
夕子の夫君をほめるわけではないが、彼は妻の不倫相手に凄みをきかせるような、レベルの低いチンピラではない。私たちは、夕子の留守を周到に確認して、男同士会って、夫婦仲の修復のことを話し合っていた。ただし、夕子の目も鋭いので、ほんのわずかしか会えなかった。これが言わば命取りとなった。
「村松さんはあいつにだまされましたね」と聞いた時の戦慄は凄かった。
確かに夫婦仲を何とか良くしようとはしていたが、夜ごと同衾するムードはさすがに作れなかったと初めて聞かされた。
「品のない言い方ですが、私のタネは入っていませんね」
私は頭が混乱した。私とて、用意周到に性行為に臨んだ。それなのに、私との性交で妊娠したという・・・。
一つ思い当たることがあった。コンドームを使う必要があった時、つまり安全日でない期間だったのだが、私は彼女だけを絶頂に導き、それを数回繰り返した疲労で、眠ってしまった。
目が覚めた時、私の股間にコンドームはなかった。眠っているうちに、一物はなえ、それを彼女が取り去って捨てたのだと知らされた。
私はこの時、彼女が何かをしたとは思わなかった。私は彼女だけを数回絶頂に達せしめた最後に射精し、そのまま眠りこけてしまった。
これ以上推理はしたくないが、夕子は産むと決めた。私には「産む」と主張したように聞こえた。
私は彼女の腹が大きくなってゆくのを見たくなかったから、再度「決別」を宣言した。
前後して冷え切っていた夫婦は離婚した。離婚後300日以内の子は前夫の子と認める法律があるが、私は二人の正式の離婚成立の日を知らされて、この法律に当てはまると思った。
だが現実は前夫は、彼女たちのもとを去り、子供は言わば不倫の子かも知れないので、前夫は被害者と言えた。彼に離婚後の責任は問えないとしか思えなかった。
もう少し詳しく書くと、二人とも起居を共にした部屋には居たくないということで、共々別の部屋を求め、そこに落ち着いた。なお、不倫の子という前夫の強い主張で、慰謝料ゼロを決めてあった。さらに現在は前夫の住んでいるところはおろか、消息さえわからない。
彼女はいきなり母子家庭の母となった。当然ながら借りる部屋のグレードを一挙に下げた。それでも落ち着くまで、何かと物入りのようで、私は向こう一年ぶんの家賃を、四回に分けて送金し、しかも返済せざるべしとの条件をつけた。
星移って、箱根峠で私たちは再会した。1999年、平成11年秋である。
彼我の収入事情は正反対となっていた。
彼女の一粒種は、小学低学年に成長していた。『別居』という基本条件で、交際復活となった。条件はほかにもある。たとえば。夕子は我が家に必ず来ない。
これは生涯独身の私の前途を案ずる両親が、彼女たちに働きかけて同居させる可能性を私が恐れたからだ。同居は事実婚の形になる。そうさせないよう、図ったのである。
子供は私になついてくれたが、去年2006年春、中学三年になってしばらくする頃から、私を嫌悪の目で見るようになった。
詳しくは措(お)くが、私はもはやこれまで、潮時と察した。
子供とは、よく拳法を試合形式でやって来た。良いコミュニケーションだと楽しく思っていたこの武道がアダとなった。
ある時、教えた技を思い切りわき腹に蹴込まれ、とっさに起こった怒りの勢いで、私は子供の太ももを下段蹴りで強打した。
夕子の顔色が変わり、私に非難の大音を浴びせた。
蹴られた太ももがはれ上がり、子供は長いあいだ、ビッコを引いたらしい。
だが私は変わり者・父親失格などと非難されようとも、私の気持ちに間違いはなく、人情としても、不実な人間ではないと、今でも断じている。
私はこの、いずれの男の血を継いだとも知れず、またその子種について、怪しさも含めて、定かでないところのある事情で生まれたこの子供を、我が子といつくしむ気持ちが正直起きない。
残酷な言葉と承知で、最後に私を見下す目になったこの子に告げた。
「お前には間違いなくお母さんがいる。しかし、父親はだれかはわからない。お前の態度の豹変が反抗期のものであるにせよ、長年なつかれ、情も移りつつあった俺の思いを、お前の一撃が微塵に砕いた。俺にとって、お前は他人の子だ。
これはお前に蹴られた腹いせに言うのではない。ちょうどいいきっかけと思って言うのだ。俺はお母さんがお前をお腹に宿した時、正しい事情を詮索するより先に、堕胎するよう忠告した。子供は祝福されて生まれて来るべきだ。
俺は、いや、ここからは『おじさん』と呼ぼう。おじさんは、ある推理からお前を『コンドーム・ベビー』と・・・」
ここでさらに母親が声を荒げてなにやら大声で怒鳴ったが、私は平静を装って言葉をさえぎった。
「なぜ亭主と俺をテンビンにかけた ? 正式に離婚してから子供をつくっていれば、また事情も変わっただろうに。お前は幼稚な小細工で、コイツの子種を体内に入れて、生まれた子供が亭主似なら、仮面夫婦でも子供本位で暮らせると思ったようだが、甘い。元亭主殿は、『子供が嫌いだ』と告げた。
コイツがせめて俺になついてくれたら、俺も情が移ったのに・・」
と、私は子供に向き直って、
「今後、お前が事故死しようと病死しようと、おじさんは新聞・テレビのニュースを見た程度の関心しか起きない」
「じゃあ、これで帰るよ」
これまで何回も繰り返した言葉だったが、この時は別れを告げる言葉となった。
後日談 / 腐れ縁という言葉は、悪い意味に使うものらしいが、やや遠くに去った母子は、月日を経るあいだ、私との何年間を思い出したり、考えたりしたらしい。
もはや、親子として付き合うことはあるまいが、現在もメールなどでのやり取りを再開、続行している。
コメント