楽天日記には書けない心境なので、いつものようにここへ書く。
今までは「訣別」、「訣別2」などと、まだ余裕のカケラが感じられるものだったが、今回は違う。
仔細を書く気になるかどうか、ただいまもわからないが、思いつくまま書く。
なお、ここに至っては、かつてのようにうわっついたように名前を書くのがイヤなので、単語登録で造語した。「某女」または単に「女」で通す。平成初め、某女が、亭主と破局寸前という頃、私にはしめたとの思いが確かにあった。
ただし、40が目前の己の年齢を考えると、子供を作る気はなかった。
某女は、「子供」が欲しいと切望の旨を力説したから、一旦白紙撤回した。
女は一度妊娠して掻爬(そうは)したと言った。のちにウソとわかったが、一念を思いやった。これが誤算となった。
私は再び三たび話し合いに応じたが、相変わらず「産みたい」の一点張りだった。
私は私で依然己の年齢を訴えた。女は「母子家庭でいい」と言い張る。
この時、私の塾はまだ収入安定の初めの時期にあり、衣食の余裕が有り余っていた。
私はあえて定義とは違う言葉で「私生児を産むも同然で、子供が可哀想だ」とこれは世間の常識を告げたが、もはや相手がいないと言う。
長い付き合いゆえ、情が移ってはいたが、軽々しい返事は必ずするまいと、ここはまたも一旦見送りとした。
一方、私は私で見合いをしていた。ほんの数件ではあるが。
見合いは気に入る相手を見出せなかったし、その都度の見合い相手も同様に私を気に入らなかったようだった。
最近の見合い写真は、テレビドラマのような修整をしない。ポケットカメラで写したものを互いに送るから、実物はほぼ同じだが、中に写真よりふけた者がいて、これには閉口した。
見合いは気乗りせずに終わった。以後二度としていない。
見合いした数人と某女とでは、この女が数段優っていたし、肉体関係があったから、そのほうの営みにも、気が楽だった。
私はこれも一つの過ちと承知で子作りを決意しかかったが、次に会う時に条件を出した。「ほぼ同時期に亭主とも営みをせよ」と。
無論、その行為の証拠を見出せぬむなしい条件であるが、私はこの条件がのちのち、己を束縛しない材料になることを期して、書面をワープロで作り、ここに一筆書かせた。
いろいろな目的があるが、私も翻弄されて来た以上、イザという時に、生まれて来る子に対する一切の責任を免れて当然との証拠を作るためだった。
女の筆跡と、同時期亭主とも営んだ事実をウソでもを残すことで、私の人のいいというか愚かと言うか、その行為にいくらかでも我れに理ありと、主張出来るものを形ある書面で残しておく必要があった。
結論を急ぐため、これ以降の経緯を省く。
女は一児を産んだ。当然自分で育てて来た。
これはいずれのタネを宿した子か、不明である。法的根拠はともかく、そういう約束の書面がある。
ここへ来て、将来設計の話となった。
私は今の預金は十年で底をつくから、これは残高ゼロになると強調した。
女は、私の土地と家屋をあてにした。だが、父親死後の遺留分を兄嫁があきらめるなら、私の死後、これらを甥三人に与える旨したためた遺書がある。
これを反故にする価値が女にあるかどうか、ここへ来て疑わしくなった。
このことをめぐり、口論になった。
私は別れた亭主に理があると言った。これがしゃくにさわったのか、主婦失格かと食ってかかったので、男との同居はむかぬだろうと、初めて本音を語った。
女はそれなら結構、以後出入り無用に願いたいと言い放って、それきり話は進まないので、私はこれを以て縁が切れたと判断した。
今までになく興ざめた結果になった。この日記に「いよいよ訣別」と書こうとしたが、何回も書いて、言葉が軽くなっているので、別のタイトルにした。
終了である。
今までは「訣別」、「訣別2」などと、まだ余裕のカケラが感じられるものだったが、今回は違う。
仔細を書く気になるかどうか、ただいまもわからないが、思いつくまま書く。
なお、ここに至っては、かつてのようにうわっついたように名前を書くのがイヤなので、単語登録で造語した。「某女」または単に「女」で通す。平成初め、某女が、亭主と破局寸前という頃、私にはしめたとの思いが確かにあった。
ただし、40が目前の己の年齢を考えると、子供を作る気はなかった。
某女は、「子供」が欲しいと切望の旨を力説したから、一旦白紙撤回した。
女は一度妊娠して掻爬(そうは)したと言った。のちにウソとわかったが、一念を思いやった。これが誤算となった。
私は再び三たび話し合いに応じたが、相変わらず「産みたい」の一点張りだった。
私は私で依然己の年齢を訴えた。女は「母子家庭でいい」と言い張る。
この時、私の塾はまだ収入安定の初めの時期にあり、衣食の余裕が有り余っていた。
私はあえて定義とは違う言葉で「私生児を産むも同然で、子供が可哀想だ」とこれは世間の常識を告げたが、もはや相手がいないと言う。
長い付き合いゆえ、情が移ってはいたが、軽々しい返事は必ずするまいと、ここはまたも一旦見送りとした。
一方、私は私で見合いをしていた。ほんの数件ではあるが。
見合いは気に入る相手を見出せなかったし、その都度の見合い相手も同様に私を気に入らなかったようだった。
最近の見合い写真は、テレビドラマのような修整をしない。ポケットカメラで写したものを互いに送るから、実物はほぼ同じだが、中に写真よりふけた者がいて、これには閉口した。
見合いは気乗りせずに終わった。以後二度としていない。
見合いした数人と某女とでは、この女が数段優っていたし、肉体関係があったから、そのほうの営みにも、気が楽だった。
私はこれも一つの過ちと承知で子作りを決意しかかったが、次に会う時に条件を出した。「ほぼ同時期に亭主とも営みをせよ」と。
無論、その行為の証拠を見出せぬむなしい条件であるが、私はこの条件がのちのち、己を束縛しない材料になることを期して、書面をワープロで作り、ここに一筆書かせた。
いろいろな目的があるが、私も翻弄されて来た以上、イザという時に、生まれて来る子に対する一切の責任を免れて当然との証拠を作るためだった。
女の筆跡と、同時期亭主とも営んだ事実をウソでもを残すことで、私の人のいいというか愚かと言うか、その行為にいくらかでも我れに理ありと、主張出来るものを形ある書面で残しておく必要があった。
結論を急ぐため、これ以降の経緯を省く。
女は一児を産んだ。当然自分で育てて来た。
これはいずれのタネを宿した子か、不明である。法的根拠はともかく、そういう約束の書面がある。
ここへ来て、将来設計の話となった。
私は今の預金は十年で底をつくから、これは残高ゼロになると強調した。
女は、私の土地と家屋をあてにした。だが、父親死後の遺留分を兄嫁があきらめるなら、私の死後、これらを甥三人に与える旨したためた遺書がある。
これを反故にする価値が女にあるかどうか、ここへ来て疑わしくなった。
このことをめぐり、口論になった。
私は別れた亭主に理があると言った。これがしゃくにさわったのか、主婦失格かと食ってかかったので、男との同居はむかぬだろうと、初めて本音を語った。
女はそれなら結構、以後出入り無用に願いたいと言い放って、それきり話は進まないので、私はこれを以て縁が切れたと判断した。
今までになく興ざめた結果になった。この日記に「いよいよ訣別」と書こうとしたが、何回も書いて、言葉が軽くなっているので、別のタイトルにした。
終了である。
コメント
今日は久しぶりにお会いできて、懐かしい時間を過ごさせていただきました。
こちらの都合で伺うばかりで申し訳なく思っております。
kennsuke@jcom.home.ne.jpがアドレスです。