平成7年8月5日の日記から。

兄の発病がいつかはわからないが、以前の会社「陶陶酒」にいたころ、毎年定期健診をやっていたとしたら、少なくも昭和62年の年末までは健康体だったわけだ。

翌、昭和63年のいつかに発病したことになる。
この63年夏、私は兄一家の招きで、軽井沢の別荘に遊びにいった。
このころの兄の自家用車はグレーのアコードだった。

観光地の一つ、鬼押し出しへいく途中、兄が80キロほどの速度で軽快に走らせながら、アコードの性能の話や、その他いろいろな話をしてくれたのが印象に残っている。

この軽井沢の休暇の最後の晩、私と兄は思想のことでちょっとした口論をしてしまったが、兄の話し方はあくまで穏やかで理路整然とし、私のほうがかっかしてしまったほどだった。

人間が出来ている、いや、兄はずいぶん温厚に変わったと痛感した経験でもあった。
学生時代までなら、口論して兄にさからったら、勝ち目はないどころか、冷たくされ、しばらく口をきいてもらえなくなったものだ。

それがこの軽井沢最後の晩、尽きぬ議論にまとまりがつくはずもなく、兄はポツリ言った。「もう遅いから、寝ようや」
翌朝、声をかけたのは兄だった。
「夕べはよく眠れたか」
眠れたと答えると、兄はそうかよかったという意味の言葉を返してくれた。

これらいちいちが、今思い出して、兄への追慕の情をかきたてて、やりきれぬ悲しみに包まれる。
あのころから、さらに兄は私の独身人生のただ一人の支えだった。

この年、昭和63年暮れの健康診断で兄の発病が判明した。
私が筑波大学に急行したのは翌平成元年の冬二月ごろだったか。
検査のため一時的に大学病院に入院していた兄が、私を迎えてくれた時の姿が目に焼きついている。

ところが私はその時の兄の服装をよく覚えていない。今で言うジャージのような軽装だったか ?
無論兄はまだまだ元気そのもので、しかも私たちを心配させまいとしてか、あるいは自他ともにこのような忌まわしき病を信じたくない気持ちも手伝ってか、「白血病なんかじゃないよ。おふくろも本当に心配性だなあ。俺のはな、単に白血球が増える病気なんだよ。だからそんなに深刻なものじゃないんだ。心配ない」と、しきりに言っていた。

白血病でなくて単に白血球が増える病気などというものがあるはずがない。白血病は死病であり、この点ガンと同じか、場合によってはもっと残酷だ。ずいぶんだめになってしまう人も多いと聞く。
ある医大生は罹病を知ってまもなく自殺した話もあった。

だが兄は自らを励まし、私たち周りのものを励まし、病気を知らされてから実に六年余の長きにわたって、まともな社会生活をやり通した。
強い精神力などとひとことで形容できる程度のものではない。

我々の想像を絶する兄の気力というものがある。それを六年余のあいだ、私たちは目の当たり見た。
兄はひとときもとどまったり休んだりということがなかった。

いつ死が迫りくるか全く目に見えない。その中で遂に最後まで普通の社会人としての生活をやり通した。

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