兄への追慕の念続き
2004年12月21日きのうの日記のつづき。つまり平成7年8月4日の日記帳のつづき。
兄は初め大部屋の一つのベッドにいた。兄嫁の気の利かぬところだった。急ぎ母が機転を利かせて交渉、すぐに豪華ホテルの一室の如き個室に移ったが、無論そこはむなしい部屋だった。
兄が臨終を迎えるのは時間の問題だった。既に幼若白血球数十数万個。
兄は時々眼を閉じたまま起き上がると、激しく嘔吐して胆汁のように濃い茶色のどろどろしたものを吐いた。都合二回に及んだが、二回目は口からだけでなく、鼻からも出した。この洗面器は私が洗った。
翌、水曜日まで荒い呼吸が続いた。たまりかねた私は看護婦さんに頼んでやや強い鎮静剤を注射してもらった。
本心は早く兄を楽にさせてやりたい気持ちからだった。
この鎮静剤を注射して以後、兄の動きは次第に緩慢になっていったが、致死量ほどの注射をしたわけでもあるまい。
たまたま兄の容態がそうなったと思える。
兄は前日、火曜の朝、既に右半身不随となっていたが、鎮静剤注射ののち、次第に左に及び、それまでしきりに動かしていた左手・左足の動きも止まり、とうとう荒い呼吸だけを繰り返すこととなり、やがて最後の幾呼吸かしたあと、突然吐いた息を吸わなくなった。絶命の瞬間だった。7月26日、水曜日、午後2時25分、兄臨終。
それまでじっと見守っていた私たち皆がいっせいに泣き声を上げた。
父がひとこと「則和ッ ! 」と言って絶句したのを覚えている。
私はもはや生きる望みを瞬時に失っていたから、「お兄ちゃんッ ! 」と短く叫んで、しばし泣いているのみだった。
母は、ずっと兄の手を握りしめていたが、この時、最もその泣く様子が悲しげで哀れだった。さかさまが起きたのだった。
70近くになって、長男に先に逝かれた母の心中、察することさえ出来なかった。
少し時間をさかのぼる。7月23日、日曜日には、長男の友だちがおおぜい遊びに来ていた。彼らを兄がカメラで撮っていた。更に兄は庭に一輪咲いた花をながめて「きれいだなあ」とつぶやき、これも写真に撮った。
死が間近に迫ると、人は皆仏様のようになることを知らされた。
そして更に、音信を断っていた者たちにていねいな手紙を書き、菓子折りと共に送っていた。
この日曜日に兄が写した写真を収めたアルバムは茶の間にあるが、公表日記の場には掲載出来ない。
兄の死は、仲の悪い父方の親類にも一切知らせていない。母のせめてもの抵抗と察する。理解するしないではない。母の悲しみを思いやると、何も意見なぞ出来ようものか。
7月24日、月曜日、兄嫁は兄に少し休んだらどうかと思いやりの言葉をかけた。
兄は答えた。「俺が働かなくて、誰がこの家を守るのだよ。な、いいから心配するな」と兄嫁の心遣いに応えた。
しかし、その夜帰宅した兄は、妻に向かってこう言った。
「もう仕事が出来ない。済まない・・」
兄は妻に詫びた。兄嫁の話から察するに、この時脳内に変化が起きていた。
まともな食事をとろうという食欲は、もはや起こらず、桃の缶詰とアイスクリームを食べたが、このアイスモナカの名前を既に言えなくなっていた。
「ほら、あれだよ・・あのふかふかしたやつだよ、ふかふかの・・」
これだけ言うのが精一杯だった。
妻が察してアイスモナカを与えたということだった。
多分、この日出社して、兄は自分の脳に異変を感じた。仕事は満足に出来なかったろう。その時の兄の気持ちを想像すると、やりきれない気持ちになる。
今にして思うが、ろくでなしの私が死んで、兄のような価値ある人が、もっと生き続けて、家族を養い、共々苦楽を分かち合って、明け暮れに、いそしめば良かった。
私は生きる価値のない人間だ。
ただ、今でも私がこのことを言うと、母は決まって「何をバカなことを言うのだい」と戒めてくれる。ありがたいが、私が代わりになれば良かった。ただし、白血病と共に生きた兄と同じことは出来ない。
バイクで路上横死でもしていれば楽だったかも知れない。
つづく。
兄は初め大部屋の一つのベッドにいた。兄嫁の気の利かぬところだった。急ぎ母が機転を利かせて交渉、すぐに豪華ホテルの一室の如き個室に移ったが、無論そこはむなしい部屋だった。
兄が臨終を迎えるのは時間の問題だった。既に幼若白血球数十数万個。
兄は時々眼を閉じたまま起き上がると、激しく嘔吐して胆汁のように濃い茶色のどろどろしたものを吐いた。都合二回に及んだが、二回目は口からだけでなく、鼻からも出した。この洗面器は私が洗った。
翌、水曜日まで荒い呼吸が続いた。たまりかねた私は看護婦さんに頼んでやや強い鎮静剤を注射してもらった。
本心は早く兄を楽にさせてやりたい気持ちからだった。
この鎮静剤を注射して以後、兄の動きは次第に緩慢になっていったが、致死量ほどの注射をしたわけでもあるまい。
たまたま兄の容態がそうなったと思える。
兄は前日、火曜の朝、既に右半身不随となっていたが、鎮静剤注射ののち、次第に左に及び、それまでしきりに動かしていた左手・左足の動きも止まり、とうとう荒い呼吸だけを繰り返すこととなり、やがて最後の幾呼吸かしたあと、突然吐いた息を吸わなくなった。絶命の瞬間だった。7月26日、水曜日、午後2時25分、兄臨終。
それまでじっと見守っていた私たち皆がいっせいに泣き声を上げた。
父がひとこと「則和ッ ! 」と言って絶句したのを覚えている。
私はもはや生きる望みを瞬時に失っていたから、「お兄ちゃんッ ! 」と短く叫んで、しばし泣いているのみだった。
母は、ずっと兄の手を握りしめていたが、この時、最もその泣く様子が悲しげで哀れだった。さかさまが起きたのだった。
70近くになって、長男に先に逝かれた母の心中、察することさえ出来なかった。
少し時間をさかのぼる。7月23日、日曜日には、長男の友だちがおおぜい遊びに来ていた。彼らを兄がカメラで撮っていた。更に兄は庭に一輪咲いた花をながめて「きれいだなあ」とつぶやき、これも写真に撮った。
死が間近に迫ると、人は皆仏様のようになることを知らされた。
そして更に、音信を断っていた者たちにていねいな手紙を書き、菓子折りと共に送っていた。
この日曜日に兄が写した写真を収めたアルバムは茶の間にあるが、公表日記の場には掲載出来ない。
兄の死は、仲の悪い父方の親類にも一切知らせていない。母のせめてもの抵抗と察する。理解するしないではない。母の悲しみを思いやると、何も意見なぞ出来ようものか。
7月24日、月曜日、兄嫁は兄に少し休んだらどうかと思いやりの言葉をかけた。
兄は答えた。「俺が働かなくて、誰がこの家を守るのだよ。な、いいから心配するな」と兄嫁の心遣いに応えた。
しかし、その夜帰宅した兄は、妻に向かってこう言った。
「もう仕事が出来ない。済まない・・」
兄は妻に詫びた。兄嫁の話から察するに、この時脳内に変化が起きていた。
まともな食事をとろうという食欲は、もはや起こらず、桃の缶詰とアイスクリームを食べたが、このアイスモナカの名前を既に言えなくなっていた。
「ほら、あれだよ・・あのふかふかしたやつだよ、ふかふかの・・」
これだけ言うのが精一杯だった。
妻が察してアイスモナカを与えたということだった。
多分、この日出社して、兄は自分の脳に異変を感じた。仕事は満足に出来なかったろう。その時の兄の気持ちを想像すると、やりきれない気持ちになる。
今にして思うが、ろくでなしの私が死んで、兄のような価値ある人が、もっと生き続けて、家族を養い、共々苦楽を分かち合って、明け暮れに、いそしめば良かった。
私は生きる価値のない人間だ。
ただ、今でも私がこのことを言うと、母は決まって「何をバカなことを言うのだい」と戒めてくれる。ありがたいが、私が代わりになれば良かった。ただし、白血病と共に生きた兄と同じことは出来ない。
バイクで路上横死でもしていれば楽だったかも知れない。
つづく。
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