兄への追慕の念やみがたし
2004年12月20日死んだ人のことをいつまで悔やんでは、亡き人も浮かばれぬというが、いっぽうで、悲しみいえぬうちは、いつでも泣きたいだけ泣くがよいと、これはアメリカの関係団体の意見である。
私はこれを支持する。心行くまで故人への思いを涙に託して泣きとおすこと、また故人への供養にもなるという主張だ。
ここにアメリカ人の偉大さを感ずる。
いかにも死んだ人は心の中にいつまでも生きている。ゆえに、思い出しては泣くのだ。
この日記文、知る人へのこれ見よがしになることだけを恐れる以外は、兄への偽りなき思いを存分につづる。
これからしばらくのあいだ、楽天日記は手抜きし、本物の日記帳から、兄のことをつづった箇所を抜粋要約してみる。
兄が我が家を最後に訪れたのは、平成7年(1995)五月の連休中だった。
おぼれる者はわらをもつかむのたとえ通りか、妻が新興宗教に入信し、兄もわざと感化されるようにこれに入ったが、つかの間で、兄自身が怪しさをつとに感じていて、結果ここを去った。
私はイカサマとは言えなかった。
妻は更に別の霊能力者を訪ね、兄に心霊治療を受けさせたが、なぜか一時的に体調すこぶる良くなり、この連休に来た時は「俺、治った」と告げたが、私は精一杯兄に共感するフリをした。
イカサマだよとはとても言えなかった。
兄はわけあって転職し、直後社命により研修にベルギーへと飛んだが、現地で急性転化、兄自身がこれを知ったはずだ。成田出発は5月7日だった。
不吉の報せか、翌日私はメニエル症の目が回る症状をこの夜中に起こした。
6月5日、兄帰国。6月17日、帰国後、体調芳しからず、両親が土浦へ見舞いに行った。元気な兄との今生の別れだった。
私はこのことに神経を参らせ始めていた。兄あってこその私の人生。兄なくして、何が楽しいか。
何のとりえもない私に、結果として塾という糊口の道をもたらしてくれたのは、父とも兄とも慕い尊敬した兄だった。
日記は8月4日へ飛ぶ。
8月4日 金曜日
兄が、お兄ちゃんが死んだ。結局白血病が何も治ってなどいなかった。
7月25日、火曜日の午前中に容態急変の知らせを受けて兄の病院にかけつけた時は、既に意識もうろうとした状態で、呼びかけに若干の反応はあったものの、言語能力を失っていた。
不定期かも知れぬが、この日記、しばし続ける。
私はこれを支持する。心行くまで故人への思いを涙に託して泣きとおすこと、また故人への供養にもなるという主張だ。
ここにアメリカ人の偉大さを感ずる。
いかにも死んだ人は心の中にいつまでも生きている。ゆえに、思い出しては泣くのだ。
この日記文、知る人へのこれ見よがしになることだけを恐れる以外は、兄への偽りなき思いを存分につづる。
これからしばらくのあいだ、楽天日記は手抜きし、本物の日記帳から、兄のことをつづった箇所を抜粋要約してみる。
兄が我が家を最後に訪れたのは、平成7年(1995)五月の連休中だった。
おぼれる者はわらをもつかむのたとえ通りか、妻が新興宗教に入信し、兄もわざと感化されるようにこれに入ったが、つかの間で、兄自身が怪しさをつとに感じていて、結果ここを去った。
私はイカサマとは言えなかった。
妻は更に別の霊能力者を訪ね、兄に心霊治療を受けさせたが、なぜか一時的に体調すこぶる良くなり、この連休に来た時は「俺、治った」と告げたが、私は精一杯兄に共感するフリをした。
イカサマだよとはとても言えなかった。
兄はわけあって転職し、直後社命により研修にベルギーへと飛んだが、現地で急性転化、兄自身がこれを知ったはずだ。成田出発は5月7日だった。
不吉の報せか、翌日私はメニエル症の目が回る症状をこの夜中に起こした。
6月5日、兄帰国。6月17日、帰国後、体調芳しからず、両親が土浦へ見舞いに行った。元気な兄との今生の別れだった。
私はこのことに神経を参らせ始めていた。兄あってこその私の人生。兄なくして、何が楽しいか。
何のとりえもない私に、結果として塾という糊口の道をもたらしてくれたのは、父とも兄とも慕い尊敬した兄だった。
日記は8月4日へ飛ぶ。
8月4日 金曜日
兄が、お兄ちゃんが死んだ。結局白血病が何も治ってなどいなかった。
7月25日、火曜日の午前中に容態急変の知らせを受けて兄の病院にかけつけた時は、既に意識もうろうとした状態で、呼びかけに若干の反応はあったものの、言語能力を失っていた。
不定期かも知れぬが、この日記、しばし続ける。
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