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2016年10月2日 日常
ダイアリーノートを見て、改めて気づいたのはうかつでした。
ここには、ブログではなく日記、画像ではなく、写真と明記されています。
元々ブログなどとは呼びませんでした。
出来ればいつまでも、この言葉を残しておいて欲しいと思いました。
さて、写真は、私が兄と死別したあと、一年余り神経を痛めて悪心や吐き気に耐え続けたあげく、平成8年10月いっぱいで、当時経営していた塾を休業せざるを得なくなり、入院して、何んとか回復しつつあった最後に作った、幼児向け雑誌の付録です。
この頃、母は私に付き添って、長椅子か何かをベッドがわりにして、ずいぶん寝にくい姿勢で、連日私のベッドの横にいてくれました。
そしてこの組み立て付録が完成したある晩、初めは二人で、この付録のゲームを楽しんでいましたが、何が原因だったのか、私と口論になり、この夜は母は横になることもせず、夜中じゅう上半身を起こして起きていました。
恐らく悪いのは私だったはずです。折から、向かいの個室のドアが開けっ放しにされ、おおぜいの人が出入りしていました。その部屋のベッドに臨終間際のお年寄りと思われるかたが横たわっていたようです。
母は、一睡もせずに、ずっとその部屋の様子を見ていました。
もはや私が母に休むよう勧めるムードではなく、ゲームに興じてくれていた母の気持ちをいたく傷つけてしまったところへ、向かいの病室の風景が見えたので、母はいつまでも見続けていました。
その時から17年後の朝、認知症に伴う衰弱で、母は帰らぬ人となりました。
こじつけるようですが、母はあの夜、自分のやがて来たる運命と、向かいの病室の臨終間際の人とを重ねて見ていたのかも知れないと思います。
私という出来損ないの息子の世話を熱心に続けてくれたあげく、母は衰弱激しい症状に耐えながら、最期まで笑顔を絶やさずに、介護にも明るい姿勢を貫いて、この世を去りました。
組み立て付録は、入院中に退屈を紛らわせるために、何十個と作りましたが、退院後、ほとんどを処分しました。
ただ一つだけ、親不孝の連続に終わった私は、母の無償の愛情を忘れまいと、写真の付録ただ一つを捨てがたく、本棚の上に残しました。
言わば自らを戒める気持ちで残した付録です。
ここには、ブログではなく日記、画像ではなく、写真と明記されています。
元々ブログなどとは呼びませんでした。
出来ればいつまでも、この言葉を残しておいて欲しいと思いました。
さて、写真は、私が兄と死別したあと、一年余り神経を痛めて悪心や吐き気に耐え続けたあげく、平成8年10月いっぱいで、当時経営していた塾を休業せざるを得なくなり、入院して、何んとか回復しつつあった最後に作った、幼児向け雑誌の付録です。
この頃、母は私に付き添って、長椅子か何かをベッドがわりにして、ずいぶん寝にくい姿勢で、連日私のベッドの横にいてくれました。
そしてこの組み立て付録が完成したある晩、初めは二人で、この付録のゲームを楽しんでいましたが、何が原因だったのか、私と口論になり、この夜は母は横になることもせず、夜中じゅう上半身を起こして起きていました。
恐らく悪いのは私だったはずです。折から、向かいの個室のドアが開けっ放しにされ、おおぜいの人が出入りしていました。その部屋のベッドに臨終間際のお年寄りと思われるかたが横たわっていたようです。
母は、一睡もせずに、ずっとその部屋の様子を見ていました。
もはや私が母に休むよう勧めるムードではなく、ゲームに興じてくれていた母の気持ちをいたく傷つけてしまったところへ、向かいの病室の風景が見えたので、母はいつまでも見続けていました。
その時から17年後の朝、認知症に伴う衰弱で、母は帰らぬ人となりました。
こじつけるようですが、母はあの夜、自分のやがて来たる運命と、向かいの病室の臨終間際の人とを重ねて見ていたのかも知れないと思います。
私という出来損ないの息子の世話を熱心に続けてくれたあげく、母は衰弱激しい症状に耐えながら、最期まで笑顔を絶やさずに、介護にも明るい姿勢を貫いて、この世を去りました。
組み立て付録は、入院中に退屈を紛らわせるために、何十個と作りましたが、退院後、ほとんどを処分しました。
ただ一つだけ、親不孝の連続に終わった私は、母の無償の愛情を忘れまいと、写真の付録ただ一つを捨てがたく、本棚の上に残しました。
言わば自らを戒める気持ちで残した付録です。
無為・無策、前途への希望もないだらしない生活が続いています。
強いて書くなら、孤独との闘いの毎日といったところでしょうか。
文案もなかなか思いつきません。
自害の勇気もなく、このままダラダラと明け暮れに身を任すのみです。
お母さんとの楽しい生活がよく脳裡によみがえります。それは現在の家での生活ではなく、以前の家でのものです。
お母さん、堪忍ね。
強いて書くなら、孤独との闘いの毎日といったところでしょうか。
文案もなかなか思いつきません。
自害の勇気もなく、このままダラダラと明け暮れに身を任すのみです。
お母さんとの楽しい生活がよく脳裡によみがえります。それは現在の家での生活ではなく、以前の家でのものです。
お母さん、堪忍ね。
母の思い出のものが変わりゆく
2015年12月2日 日常母を思い出せるものは、なるべくそのままにしておきたいと思ういっぽうで、例えば5年後にはまことに長年慣れ親しんで来た蛍光管式の照明が廃止になるという。
かつて自宅新築に伴って、学習塾を今の自宅で新たに始める時、母が教室の蛍光灯4基、1基につき蛍光管4本を用意してくれた。
12月1日、夕方、LEDの照明に替えたが、感覚では、今までの蛍光灯1基のさらに半分の蛍光管2本のほうが明るかったように思う。
あくまで己れの感覚であるし、蛍光灯とLEDでは、明るさの性質が異なるのかも知れない。政府がそんなことを決めさえしなければ、私は決して安くない出費をしてまで、特に、母の思い出が常によみがえる蛍光灯をはずす気はなかった。
また一つ、母を思い起こす品物が、元の教室から文字通り消え去った。
物理的な明るさに乏しいばかりでなく、母が残してくれた明るさが減ったようだ。
なお、今年11月22日、日曜日が母の三回忌だったが、一周忌も法要せず、今回も同じくお墓参りで済ませた。お布施とやらが尋常な金額ではない。
お母さん、元の教室の照明について、厚和の選択はこれで良かったのでしょうか。
お母さん、堪忍ね。
かつて自宅新築に伴って、学習塾を今の自宅で新たに始める時、母が教室の蛍光灯4基、1基につき蛍光管4本を用意してくれた。
12月1日、夕方、LEDの照明に替えたが、感覚では、今までの蛍光灯1基のさらに半分の蛍光管2本のほうが明るかったように思う。
あくまで己れの感覚であるし、蛍光灯とLEDでは、明るさの性質が異なるのかも知れない。政府がそんなことを決めさえしなければ、私は決して安くない出費をしてまで、特に、母の思い出が常によみがえる蛍光灯をはずす気はなかった。
また一つ、母を思い起こす品物が、元の教室から文字通り消え去った。
物理的な明るさに乏しいばかりでなく、母が残してくれた明るさが減ったようだ。
なお、今年11月22日、日曜日が母の三回忌だったが、一周忌も法要せず、今回も同じくお墓参りで済ませた。お布施とやらが尋常な金額ではない。
お母さん、元の教室の照明について、厚和の選択はこれで良かったのでしょうか。
お母さん、堪忍ね。
お母さん、まだまださびしいですよ・・ !
2015年4月26日 日常お母さんとの死別からようやく3ケ月というブログを書いたままでしたが、もう一年数ヶ月が経ちました。
でも、お母さんがいなくなったのは想像を絶する痛手で、厚和はお母さんのよく口にした「去る者日々に疎し」がいつごろから実感出来るものか、見当もつきません。
もはや遅きに失したことですが、たとえお母さんに叱られてでも、久沢の頃からビデオカメラを買い、お母さんの生活の姿を克明に記録しておくべきだったと後悔しています。
お母さんは正月の正装などの時以外にカメラを向けると、とても嫌がったので、ビデオとなるとさらにむつかしかったでしょうが、50代からの元気で頼もしく、ユーモアがあって活発だったお母さんを記録しておきたかったと、後悔することしきりです。
でも、お母さんがいなくなったのは想像を絶する痛手で、厚和はお母さんのよく口にした「去る者日々に疎し」がいつごろから実感出来るものか、見当もつきません。
もはや遅きに失したことですが、たとえお母さんに叱られてでも、久沢の頃からビデオカメラを買い、お母さんの生活の姿を克明に記録しておくべきだったと後悔しています。
お母さんは正月の正装などの時以外にカメラを向けると、とても嫌がったので、ビデオとなるとさらにむつかしかったでしょうが、50代からの元気で頼もしく、ユーモアがあって活発だったお母さんを記録しておきたかったと、後悔することしきりです。
母との永の別れからようやく三ヶ月
2014年2月23日 日常母の容態を記録した去年のワード文章に以下のようにある。
11月17日(日)
ランブラで午後2時に着く。母は今日は寝返りを打つ前とあとで、ともに何回も目をパッチリあけ、何やらおしゃべりしていた。
怖いくらいだった。私の顔も見つめるが、言葉がうまく聞き取れず、母が何かを訴えているのか、わからなかった。だが目をあけた時の瞳がきらきら輝いて、本当にきれいなものだと思った。
一度、私が何か母に話すと、母はいかにもおかしそうににっこり笑って、目をつぶった。母のこの表情もしばらくぶりだった。
目をあけることとつぶることを繰り返し、目をつぶった時は大きく息をしていた。息苦しいのでなければ良いがと、やや心配した。
母が目をつぶっているあいだに部屋を出る。時刻はわからない。4時をとうに過ぎていたとは思う。
母の余力の表われなら本当に良いのだがと思いつつ、帰途に就く。
お母さん、今日もありがとうね。
この日から六日目に母は帰らぬ人となった。
母の笑顔を思い出すたび、まるで夢、幻のような心地である。この笑顔を見せた日から一週間後にはお骨となるなどとは予想も出来なかった。
昨日で三ヶ月経った。
まだ心が受け入れられないこのごろである。
11月17日(日)
ランブラで午後2時に着く。母は今日は寝返りを打つ前とあとで、ともに何回も目をパッチリあけ、何やらおしゃべりしていた。
怖いくらいだった。私の顔も見つめるが、言葉がうまく聞き取れず、母が何かを訴えているのか、わからなかった。だが目をあけた時の瞳がきらきら輝いて、本当にきれいなものだと思った。
一度、私が何か母に話すと、母はいかにもおかしそうににっこり笑って、目をつぶった。母のこの表情もしばらくぶりだった。
目をあけることとつぶることを繰り返し、目をつぶった時は大きく息をしていた。息苦しいのでなければ良いがと、やや心配した。
母が目をつぶっているあいだに部屋を出る。時刻はわからない。4時をとうに過ぎていたとは思う。
母の余力の表われなら本当に良いのだがと思いつつ、帰途に就く。
お母さん、今日もありがとうね。
この日から六日目に母は帰らぬ人となった。
母の笑顔を思い出すたび、まるで夢、幻のような心地である。この笑顔を見せた日から一週間後にはお骨となるなどとは予想も出来なかった。
昨日で三ヶ月経った。
まだ心が受け入れられないこのごろである。
お母さんの5年間への思い
2013年10月2日 日常恨み言を並べても余り心地よいものではない。
タイトルを改めて、ブログ更新する。
母は、2008年8月29日、認知症を伴う極度の脱水症状で入院、都合で数日後退院したが、それからの体力の回復が著しく、年内に自力歩行も出来るほどになった。もちろん食欲も回復がめざましかった。
そしてちょうど5年後の2013年8月29日、著しく衰弱した。数字の皮肉を感じる。
この5年間、介護職の人は母の一番幸せな時期と評価したが、母は著しい回復後も、ゆっくり衰えていった。
母と同い年でも足腰をいくらか弱くしただけで健在な人もいる。
これも人の世の当然とは承知出来るものの、母に関しても、あやかりたいうらやましさである気持ちは否定出来ない。
母が回復後の元気を見せたのは2009年のほぼ一年間である。
認知症は将来、完治出来る治療法の確立を切望するものである。
お母さん、私はお母さんの介護をいくらか経験した息子として、この5年間は、必ずしもお母さんの身の幸福とはどうしても思えません。
むしろ、実に穏やかな本来の性質を強く表わし、介護職の者たちにも楽だったはずです。
これをはたから見ていると、お母さんが周囲に迷惑をほとんどかけずに、穏やかに身を任せることで5年が過ぎたとの印象です。
世話のやけない5年間でした。
追記
一生懸命生きて来た母に無礼と承知でさらなる本心を書く。
この5年間とは、いずれ衰弱するためにあえて介護に身を任せ、回復してのち、いよいよ衰弱著しい容態になるべくしてなった5年間である。
タイトルを改めて、ブログ更新する。
母は、2008年8月29日、認知症を伴う極度の脱水症状で入院、都合で数日後退院したが、それからの体力の回復が著しく、年内に自力歩行も出来るほどになった。もちろん食欲も回復がめざましかった。
そしてちょうど5年後の2013年8月29日、著しく衰弱した。数字の皮肉を感じる。
この5年間、介護職の人は母の一番幸せな時期と評価したが、母は著しい回復後も、ゆっくり衰えていった。
母と同い年でも足腰をいくらか弱くしただけで健在な人もいる。
これも人の世の当然とは承知出来るものの、母に関しても、あやかりたいうらやましさである気持ちは否定出来ない。
母が回復後の元気を見せたのは2009年のほぼ一年間である。
認知症は将来、完治出来る治療法の確立を切望するものである。
お母さん、私はお母さんの介護をいくらか経験した息子として、この5年間は、必ずしもお母さんの身の幸福とはどうしても思えません。
むしろ、実に穏やかな本来の性質を強く表わし、介護職の者たちにも楽だったはずです。
これをはたから見ていると、お母さんが周囲に迷惑をほとんどかけずに、穏やかに身を任せることで5年が過ぎたとの印象です。
世話のやけない5年間でした。
追記
一生懸命生きて来た母に無礼と承知でさらなる本心を書く。
この5年間とは、いずれ衰弱するためにあえて介護に身を任せ、回復してのち、いよいよ衰弱著しい容態になるべくしてなった5年間である。
「特別養護老人ホーム」存在への懐疑
2013年9月28日 日常略して「特養」を退所した今、改めてこの施設の価値への疑問を書いておく。
ただし、もはや退所となったのであるし、この施設への未練はない。
それでも、説明会では「安らぎと癒しの場」であるという、歯の浮く言葉を聞いた。嘱託医は「終のすみかです」とも言った。
現実は老親を生涯託せる施設ではなかった。
言っても仕方ないと承知で特養の理想の一つを書く。
特養は老人ホームと病院の二つを併せ持つ施設であることが望ましい。
容態に変化が出たら、わざわざ入院することなく、個室は即座に病室と化す。
そのために何より改革せねばならないのは、個人開業医の副業的な嘱託制度の全廃と、それに代わる施設専属勤務医の配置である。
特養には看護婦が勤務している。看護婦は他の医院に勤めながらついでに特養に雇用されているわけではない。
嘱託医が最も問題なのだ。こんなアルバイト程度の医師ではダメだ。
例えば、これも書くだけ空しいが、母の場合、点滴で熱が下がったら、介護体制に戻し、様子をみる。介護と医療がセットになっていて初めて、家族の安心度も増す。
小康を確認したら、車椅子への移乗も出来る。
特養に過ごす年寄は、ある程度体調良好で、食欲があり、歩行などに障害がある元気な身体の持ち主ばかりである。母のように衰弱したら、結局入院退所という結果となるだけの、一時しのぎの場所が特養なのである。
お母さん、耐えるばかりの生活をさせ続けて、堪忍してね。
ただし、もはや退所となったのであるし、この施設への未練はない。
それでも、説明会では「安らぎと癒しの場」であるという、歯の浮く言葉を聞いた。嘱託医は「終のすみかです」とも言った。
現実は老親を生涯託せる施設ではなかった。
言っても仕方ないと承知で特養の理想の一つを書く。
特養は老人ホームと病院の二つを併せ持つ施設であることが望ましい。
容態に変化が出たら、わざわざ入院することなく、個室は即座に病室と化す。
そのために何より改革せねばならないのは、個人開業医の副業的な嘱託制度の全廃と、それに代わる施設専属勤務医の配置である。
特養には看護婦が勤務している。看護婦は他の医院に勤めながらついでに特養に雇用されているわけではない。
嘱託医が最も問題なのだ。こんなアルバイト程度の医師ではダメだ。
例えば、これも書くだけ空しいが、母の場合、点滴で熱が下がったら、介護体制に戻し、様子をみる。介護と医療がセットになっていて初めて、家族の安心度も増す。
小康を確認したら、車椅子への移乗も出来る。
特養に過ごす年寄は、ある程度体調良好で、食欲があり、歩行などに障害がある元気な身体の持ち主ばかりである。母のように衰弱したら、結局入院退所という結果となるだけの、一時しのぎの場所が特養なのである。
お母さん、耐えるばかりの生活をさせ続けて、堪忍してね。
二か月前、胸の影には異常なしと診断が出て、ホッとした同じ病院に、今度は入院することとなり、病院の環境のせいか、2日の入院の時以来、面会に行っていない。
また、予想した通り、我が国とは思えぬ日本列島昨今の残暑の候を襲う豪雨と災害により、向こう一両日の天気も不安定のようで、気も重いこともあり、面会に行くタイミングがつかめない。
わずかな好転でも良い、小康との判断に医師の厚意のわずかでもあってのことで良いから、当初予定の一週間で、とりあえず特養に戻れることになるよう、切に願い、祈るばかりである。
お母さん、特養の職員のほうが、皆々親切で安心出来ます。何んとか再び戻って、無理のないようにしながら、時には散歩もしたいと願っております。
また、予想した通り、我が国とは思えぬ日本列島昨今の残暑の候を襲う豪雨と災害により、向こう一両日の天気も不安定のようで、気も重いこともあり、面会に行くタイミングがつかめない。
わずかな好転でも良い、小康との判断に医師の厚意のわずかでもあってのことで良いから、当初予定の一週間で、とりあえず特養に戻れることになるよう、切に願い、祈るばかりである。
お母さん、特養の職員のほうが、皆々親切で安心出来ます。何んとか再び戻って、無理のないようにしながら、時には散歩もしたいと願っております。
もうずいぶん前から計画してはいたが、このたびの胸のCT検査で異常なしとわかったのをきっかけに、ビデオカメラを買った。
母の生活の姿は車椅子に腰かけているかベッドに横になっているかだが、それでもデジカメの静止画よりは動きがあるので、いずれの姿も撮影して残すことにした。
母の生活の姿は車椅子に腰かけているかベッドに横になっているかだが、それでもデジカメの静止画よりは動きがあるので、いずれの姿も撮影して残すことにした。
母の胸の影、異常なし
2013年7月2日 日常お母さん、あちこち衰えて来てるのは確かだし、仕方ないことだろうけど、まずは胸の影について「異常なし」の検査結果、ホントに良かったね。
施設嘱託医づてに「胸に影あり」と聞かされたとたん、身体の力が抜けて、食欲もガタンと落ちました。
ただでさえ衰えているのに、このうえ二重苦なんてたまらないよね。
お母さん、今後も無理なく穏やかに過ごして下さい。
施設嘱託医づてに「胸に影あり」と聞かされたとたん、身体の力が抜けて、食欲もガタンと落ちました。
ただでさえ衰えているのに、このうえ二重苦なんてたまらないよね。
お母さん、今後も無理なく穏やかに過ごして下さい。
お母さん、改めて早めにお別れします
2013年6月27日 日常お母さん、今日の痛みようは見るのがつらいほどでした。
お母さんがいなくなるさびしさは想像を絶します。
厚和はどうやって生きていくのか、見当もつきません。
厚和も数日来食欲がありません。
静かに穏やかに過ごしているのに、なんでお母さんを苦しめることばかりなのでしょう。
お母さんが小康を得れば言うことはありませんが、不安ばかりです。
タイトルとは反対に、厚和はお母さんの回復を祈るばかりです。
せっかく86の誕生日を迎えたのに、いやなものですね。
万一を考えねばならないのに、頭の中がまとまりません。
お母さん、苦労ばかりかけてごめんなさい。
お母さんが生きていてくれるのが、こんなにありがたいとは今まで思いもよらないことでした。
お母さん、お腹の痛みが消えることを祈っています。
お母さんがいなくなるさびしさは想像を絶します。
厚和はどうやって生きていくのか、見当もつきません。
厚和も数日来食欲がありません。
静かに穏やかに過ごしているのに、なんでお母さんを苦しめることばかりなのでしょう。
お母さんが小康を得れば言うことはありませんが、不安ばかりです。
タイトルとは反対に、厚和はお母さんの回復を祈るばかりです。
せっかく86の誕生日を迎えたのに、いやなものですね。
万一を考えねばならないのに、頭の中がまとまりません。
お母さん、苦労ばかりかけてごめんなさい。
お母さんが生きていてくれるのが、こんなにありがたいとは今まで思いもよらないことでした。
お母さん、お腹の痛みが消えることを祈っています。
短いようで長い自宅介護の歳月だった。
2008年8月終わりごろ、母は認知症による食欲減退、体力低下が一気に顕在化して、即時、かかりつけ医院への入院となったが、ほぼ5日間の点滴で、食欲の極端な低下は、少しずつ好転していった。
さらに実力派のケアマネの人が介護保険適用その他の手続きをしてくれたおかげで、デイ・サービスという、文字通り昼間だけ預かって昼食・機能訓練・入浴・娯楽などを提供してくれる施設に通うまでに回復、当時、その施設の所長でもあったケアマネの人のおかげで、年末1ヶ月ほどの最適の機能回復処置により、母は自力歩行可能なまでに回復し、翌年2009年冬の審査を経て、いっとき要介護度は「4」と下がった。
最高数値は「5」で、全面介護、介助なしではバイタルサインと呼ばれる血圧・脈拍などの体調維持は困難である。
母に関しては、数値「4」の時、姓名・生年月日を言えた。
母がいつ「5」に上がってそのままになったかは忘れた。
もちろん、「5」の時も、食欲・体力はかなり良好に保たれた。
これも今冷静にみれば、ケアマネの活動とその人が経営することになった新たなデイ・サービス・センターのおかげである。
冷静にと書いたが、このケアマネは、確かに精力的・行動的であり、積極的だが、それだけに家族からみると反感を覚えることも少なくなかった。
ただ、このケアマネの一貫姿勢が評価出来る。
例えば口調は強いが、最終結論は、自説を潔く取り下げてでも、家族の意向を尊重する。
そのぶん、あとになって家族に後悔・反省が生ずる。
一見、当たりの柔らかいケアマネが、実は母や家族にとっては、余り先見的に見えない現実も見た。
件(くだん)のケアマネが経営する施設のポリシーは実態をつぶさに見たわけではないものの、本人の断固たる主張から、推測出来る。
すなわち、職員に徹底的に厳しいとの指導方針である。また、家族に時にビシッとものを言うことはあっても、母のような利用者にはこれまた徹底して優しい。
当初やかましいと思ったこの人の地声の大きさも、この仕事の世界では大なる長所である。
家族はとりあえず健常人である。ゆえに利用者本人に代わって強く意見を言うのも無理ならぬことである。
2008年9月から本格的にケアマネとして母の介護体制に入り、2011年、12月28日まで、連続して母のあるレベル以上の体調維持を果たしてくれた。
今の母は晩年に入っていることは否定出来まい。生活感のない特養で、次第に衰えつつある。
私は今後、母に無理を極力させぬように見守る方針である。
さて、4月1日の夕方、母はいくらか元気にみえたから、軽い館内散歩に出かけた。
車椅子を押して、隣接する別の部屋の窓辺にゆき、しばらく母に外の景色を見せる。母は、散歩となると、確かに目をパッチリあけて、窓外の様子を眺める。
次にエレベーターで一階の大広間のようなところへ出て、ここでも窓辺に寄って母に景色を見せる。
母は、何やらつぶやいて、息切れしたように言葉を継げなくなるのが現状だが、外を見ながら何か言うのだから、母にある程度の体力があるうちのこの散歩は無駄ではあるまい。
大広間を一周して再びエレベーターで元の三階の部屋に戻って散歩終了である。
今後、ベッドで寝ている姿を見るばかりの日もあろうが、さりとて必ず散歩に出かけることを目指そうとは思わない。
母の体調に合わせることが肝要と心得るからだ。
この日はおやつも全部食した。
かつて杉田のおばさんと呼んで親しんだ感じのいい婦人も、84で心筋梗塞の発作で亡くなった。
母は、身体が頑丈でない割には、このおばさんの寿命を越えた。
あとは一日一日、母の容態に一喜一憂する日々の繰り返しである。
母にも私にもこれが運命である。
上掲画像二枚とも、3月23日のもの。
2008年8月終わりごろ、母は認知症による食欲減退、体力低下が一気に顕在化して、即時、かかりつけ医院への入院となったが、ほぼ5日間の点滴で、食欲の極端な低下は、少しずつ好転していった。
さらに実力派のケアマネの人が介護保険適用その他の手続きをしてくれたおかげで、デイ・サービスという、文字通り昼間だけ預かって昼食・機能訓練・入浴・娯楽などを提供してくれる施設に通うまでに回復、当時、その施設の所長でもあったケアマネの人のおかげで、年末1ヶ月ほどの最適の機能回復処置により、母は自力歩行可能なまでに回復し、翌年2009年冬の審査を経て、いっとき要介護度は「4」と下がった。
最高数値は「5」で、全面介護、介助なしではバイタルサインと呼ばれる血圧・脈拍などの体調維持は困難である。
母に関しては、数値「4」の時、姓名・生年月日を言えた。
母がいつ「5」に上がってそのままになったかは忘れた。
もちろん、「5」の時も、食欲・体力はかなり良好に保たれた。
これも今冷静にみれば、ケアマネの活動とその人が経営することになった新たなデイ・サービス・センターのおかげである。
冷静にと書いたが、このケアマネは、確かに精力的・行動的であり、積極的だが、それだけに家族からみると反感を覚えることも少なくなかった。
ただ、このケアマネの一貫姿勢が評価出来る。
例えば口調は強いが、最終結論は、自説を潔く取り下げてでも、家族の意向を尊重する。
そのぶん、あとになって家族に後悔・反省が生ずる。
一見、当たりの柔らかいケアマネが、実は母や家族にとっては、余り先見的に見えない現実も見た。
件(くだん)のケアマネが経営する施設のポリシーは実態をつぶさに見たわけではないものの、本人の断固たる主張から、推測出来る。
すなわち、職員に徹底的に厳しいとの指導方針である。また、家族に時にビシッとものを言うことはあっても、母のような利用者にはこれまた徹底して優しい。
当初やかましいと思ったこの人の地声の大きさも、この仕事の世界では大なる長所である。
家族はとりあえず健常人である。ゆえに利用者本人に代わって強く意見を言うのも無理ならぬことである。
2008年9月から本格的にケアマネとして母の介護体制に入り、2011年、12月28日まで、連続して母のあるレベル以上の体調維持を果たしてくれた。
今の母は晩年に入っていることは否定出来まい。生活感のない特養で、次第に衰えつつある。
私は今後、母に無理を極力させぬように見守る方針である。
さて、4月1日の夕方、母はいくらか元気にみえたから、軽い館内散歩に出かけた。
車椅子を押して、隣接する別の部屋の窓辺にゆき、しばらく母に外の景色を見せる。母は、散歩となると、確かに目をパッチリあけて、窓外の様子を眺める。
次にエレベーターで一階の大広間のようなところへ出て、ここでも窓辺に寄って母に景色を見せる。
母は、何やらつぶやいて、息切れしたように言葉を継げなくなるのが現状だが、外を見ながら何か言うのだから、母にある程度の体力があるうちのこの散歩は無駄ではあるまい。
大広間を一周して再びエレベーターで元の三階の部屋に戻って散歩終了である。
今後、ベッドで寝ている姿を見るばかりの日もあろうが、さりとて必ず散歩に出かけることを目指そうとは思わない。
母の体調に合わせることが肝要と心得るからだ。
この日はおやつも全部食した。
かつて杉田のおばさんと呼んで親しんだ感じのいい婦人も、84で心筋梗塞の発作で亡くなった。
母は、身体が頑丈でない割には、このおばさんの寿命を越えた。
あとは一日一日、母の容態に一喜一憂する日々の繰り返しである。
母にも私にもこれが運命である。
上掲画像二枚とも、3月23日のもの。
機能しなくなった通話機が鳴った出来事
2013年3月30日 日常母の衰えが進んでいる。ハッキリしているのは食欲の衰えである。
ここ数日、面会に行くたびに、母はベッドに横になってぐったりしている。
母がいる施設は10人一部屋と書いたが、さらに1人ずつ個室がある。
そのベッドで、目下連日、母はベッドに寝ている。
高齢に達した老人がさらに寿命を縮めるのは、たとえば転んだことが原因だともよく言われる。
母の場合も、3月18日、夕方、新参の職員が、ベッドから車椅子への移動を行なう際に、姿勢が不安定な母を支えもせずに車椅子に気をとられているさ中に起こった。明らかにミスである。
これについて問題視する気配もなく、私の夜間電話へのクレームばかり一方的で、母の転落事故については、その後の様子で、心配ないとの勝手な判断から、私への謝罪ひとことで終わりにしたつもりである。
母は、明らかに固い床(ゆか)に頭を強く打ち付けた。
既にベッドに臥しがちな様子だったから、この事故により、さらに衰えたとの疑いはぬぐえない。
だが、もはやことを荒立てる気はない。
こんなクソ出し女1人相手にする時期ではない。
何より母が可哀想だ。
もう、衰えるばかりの母は、そっとしておいてやりたい。
3月30日、私はまだ寝ぼけ半分でいた。
電話が鳴っていると思ったのは束の間で、目が覚めた耳元に、聞き覚えのある別の機器の発信音が響いた。
二度ほど鳴ったところで、完全に目が覚めた。あと数回聞いて、音はやんだ。
その時すぐには音の正体を突き止められなかった。
試しに枕もとのケータイから固定電話の子機にかけてみたが、全く異なる音楽が流れた。
ようやく音の正体がわかったが、妙だと感じた。
平成10年ごろだから、もう10年以上前のことになる。
当時、相変わらずかんしゃく持ちの父とのいざこざが絶えず、母はよく二階に上がって来て、私の隣の部屋に寝た。
その時、私はおやすみなさいを言う前に、ある機器を用意して、隣の部屋の寝床の母と、短距離通話をした。
3月30日に鳴ったのは、その頃よく使ったコード付きの通話機である。
しかし、電池もとうに切れて、全く機能しなくなっていた。
その機械がこの日、束の間息を吹き返したかのように発信音を立てた。私は機器が鳴ったとは思っていないが、音そのものは同じだった。
これで私は目が覚め、実はこの日の面会は休もうかと迷っていたが、身体が勝手に動いて、結果、自室のベッドに相変わらず横たわる母の姿を確かめることとなった。
母を館内の散歩に連れて行くことが面会の日課の一つだが、それもかなわず、およそ5時ごろ、早めに施設を出て、帰宅の途に就いた。
ここ数日、面会に行くたびに、母はベッドに横になってぐったりしている。
母がいる施設は10人一部屋と書いたが、さらに1人ずつ個室がある。
そのベッドで、目下連日、母はベッドに寝ている。
高齢に達した老人がさらに寿命を縮めるのは、たとえば転んだことが原因だともよく言われる。
母の場合も、3月18日、夕方、新参の職員が、ベッドから車椅子への移動を行なう際に、姿勢が不安定な母を支えもせずに車椅子に気をとられているさ中に起こった。明らかにミスである。
これについて問題視する気配もなく、私の夜間電話へのクレームばかり一方的で、母の転落事故については、その後の様子で、心配ないとの勝手な判断から、私への謝罪ひとことで終わりにしたつもりである。
母は、明らかに固い床(ゆか)に頭を強く打ち付けた。
既にベッドに臥しがちな様子だったから、この事故により、さらに衰えたとの疑いはぬぐえない。
だが、もはやことを荒立てる気はない。
こんなクソ出し女1人相手にする時期ではない。
何より母が可哀想だ。
もう、衰えるばかりの母は、そっとしておいてやりたい。
3月30日、私はまだ寝ぼけ半分でいた。
電話が鳴っていると思ったのは束の間で、目が覚めた耳元に、聞き覚えのある別の機器の発信音が響いた。
二度ほど鳴ったところで、完全に目が覚めた。あと数回聞いて、音はやんだ。
その時すぐには音の正体を突き止められなかった。
試しに枕もとのケータイから固定電話の子機にかけてみたが、全く異なる音楽が流れた。
ようやく音の正体がわかったが、妙だと感じた。
平成10年ごろだから、もう10年以上前のことになる。
当時、相変わらずかんしゃく持ちの父とのいざこざが絶えず、母はよく二階に上がって来て、私の隣の部屋に寝た。
その時、私はおやすみなさいを言う前に、ある機器を用意して、隣の部屋の寝床の母と、短距離通話をした。
3月30日に鳴ったのは、その頃よく使ったコード付きの通話機である。
しかし、電池もとうに切れて、全く機能しなくなっていた。
その機械がこの日、束の間息を吹き返したかのように発信音を立てた。私は機器が鳴ったとは思っていないが、音そのものは同じだった。
これで私は目が覚め、実はこの日の面会は休もうかと迷っていたが、身体が勝手に動いて、結果、自室のベッドに相変わらず横たわる母の姿を確かめることとなった。
母を館内の散歩に連れて行くことが面会の日課の一つだが、それもかなわず、およそ5時ごろ、早めに施設を出て、帰宅の途に就いた。
「母、『水師営の会見』記録をやめようかと思う
2013年3月28日 日常母の食欲減退が著しい。
命脈尽きるのは、今年2013年前半のいずれかと推測する。
このところ、母が唯一歌える軍歌にして小学唱歌「水師営の会見」の更新記録めいたことをつづって来たが、もうやめようかとも思う。
元気ならもりもり食べるはずだが、そうではない。
母のいる10人一部屋のうち、昨年から今年へかけて既に二人のかたが亡くなった。
母は3人目になるかも知れない。
もとより母は、この世での生活を楽しいと思っていなかった。
「今夜寝て、そのままあしたになっても眠ったまま起きないといいんだけどねぇ」とよく言っていた。
我が母方の家系は、長命出来ない人々が多かった。
母の十(とお)年上の姉が二十歳で病死、五つ年上の兄が22で病死。祖父が69で病死、祖母が68で事故死している。
そして星移って逆さまが起き、母の長男が46で病死した。
父方は長命した人もいる。母の夫が2011年、入浴中に急死したが87の高齢であり、不測の事態がなければ米寿88は多分迎えたと思う。
かつてのケアマネの久保田さんは、ありがたくも励ましてくれたが、寿命は迫り来ているに相違ない。
もう、母に水師営の会見を歌わせるのはやめようと思う。
目下の更新記録だけ書いておく。
3月27日水曜日の散歩の時、母はしっかり2番の「庭にひともと、なつめの木」を歌った。これを最後の母の唱歌歌唱記録としておく。
お母さん、もう無理しないで下さいね。おばあちゃんも日ごろ「この世は苦の娑婆だよ」と言っていました。
もしも、お母さんが6月25日の誕生日を迎えられたら、うれしいことと察しますが、その頃にはだいぶ弱っているでしょうね。
お母さん、特養なんてものは、仕方無しに居る以外に価値のない建物です。
そして元気なお母さんのいない自宅もまた、我が家ではありません。
無理に食べるより、容態のままに、過ごすほうがいいですね。
もうしばらく見守らせていただきます。
お母さん、安楽に過ごして下さい・
命脈尽きるのは、今年2013年前半のいずれかと推測する。
このところ、母が唯一歌える軍歌にして小学唱歌「水師営の会見」の更新記録めいたことをつづって来たが、もうやめようかとも思う。
元気ならもりもり食べるはずだが、そうではない。
母のいる10人一部屋のうち、昨年から今年へかけて既に二人のかたが亡くなった。
母は3人目になるかも知れない。
もとより母は、この世での生活を楽しいと思っていなかった。
「今夜寝て、そのままあしたになっても眠ったまま起きないといいんだけどねぇ」とよく言っていた。
我が母方の家系は、長命出来ない人々が多かった。
母の十(とお)年上の姉が二十歳で病死、五つ年上の兄が22で病死。祖父が69で病死、祖母が68で事故死している。
そして星移って逆さまが起き、母の長男が46で病死した。
父方は長命した人もいる。母の夫が2011年、入浴中に急死したが87の高齢であり、不測の事態がなければ米寿88は多分迎えたと思う。
かつてのケアマネの久保田さんは、ありがたくも励ましてくれたが、寿命は迫り来ているに相違ない。
もう、母に水師営の会見を歌わせるのはやめようと思う。
目下の更新記録だけ書いておく。
3月27日水曜日の散歩の時、母はしっかり2番の「庭にひともと、なつめの木」を歌った。これを最後の母の唱歌歌唱記録としておく。
お母さん、もう無理しないで下さいね。おばあちゃんも日ごろ「この世は苦の娑婆だよ」と言っていました。
もしも、お母さんが6月25日の誕生日を迎えられたら、うれしいことと察しますが、その頃にはだいぶ弱っているでしょうね。
お母さん、特養なんてものは、仕方無しに居る以外に価値のない建物です。
そして元気なお母さんのいない自宅もまた、我が家ではありません。
無理に食べるより、容態のままに、過ごすほうがいいですね。
もうしばらく見守らせていただきます。
お母さん、安楽に過ごして下さい・
春3月、「水師営の会見」未だ忘れず
2013年3月23日 日常母の衰えは例えば食欲に顕著であり、その結果が体重の漸減として表われている。
残念だが現実なれば是非もない。
昨年2012年夏、朝霧高原の「花鳥園」に遠足に行った元気は、今年の夏は無理かも知れぬとも予感している。
我が直系尊属をたどるとは言っても、私には祖父母までしかある程度の情報はわからない。
祖母の両親、さらにその両親くらいまでは、ごくおおざっぱな存在はつきとめられたが、寿命となると、もはや知るすべがない。
知る限りで最も長命したのが2011年に死んだ父である。
入浴中の不慮の事故がなければ、88の米寿までは何んとか生き続けたとは思うが、父は最後の日まで、とりあえず食欲があり、何より晩酌の支度を欠かさぬ生命力があった。
ひるがえって、母は認知症が大きく阻んで、食欲という本能を失いつつある。
3月23日(土)現在では、昼食後に出るオヤツのクッキーなどをほとんど食べるという食欲はあるものの、「お母さん、あーんして」と何回も促してようやくといった現状である。
前歯がだいぶ欠けた母が、それでも奥歯でお菓子をかむ音を聞くだけで、いくらかホッとするのは正直な気持ちだが、入所当時45キロほどあった体重はおよそ41キロに減った。
母の食欲に回復という奇跡的変化を期待するのは多分無理だ。
ただ、この日、陽気もポカポカして、そろそろ館内を散歩出来ると思った私は、母をしばらくぶりに、一階の大広間に連れて行った。すると、窓辺に近づいた母は、一心に外の景色を眺める。
冬のあいだは、インフルだ風邪だと、施設側がうるさかったから我慢していたが、母の部屋のあるリビングで車椅子に腰掛けさせていると、すぐにウトウトしてしまった。ところが、この23日の館内散歩のあいだ、母はうとうとすることなく、ずっと目をあけていた。
一階だけではない。何しろ傾いた日が強く、館内廊下にいる限り風にあたることがないので、夏の暑さのように日差しを受けて汗ばむほどだ。
三階廊下の突き当たりの窓辺でも、日差しを浴びながら、母はずっと外の景色を見つめていた。
やがて別のところへ移動し始めるころ、しばらくごぶさただからと半ば観念しながらも、私は車椅子の母の背中に向かって、母がただ一曲口ずさむ「水師営の会見」の2番の出だしを歌ってみた。
「庭にひともと・・・」である。すると母はテンポも合わせるような確かさで「なつめの木」と歌ってくれた。
私は車椅子をとめて、母に向かってしゃがみ、「お母さん、凄いね。一発で歌の続きが出たね」と肩をなでて礼ともほめ言葉とも言えるひとことを返した。
「水師営の会見」は私の世代でさえ、果たして何割が歌えるかというほど、古い軍歌であり、かつての小学唱歌である。
あと何回散歩が出来るか、そして、いつまで「水師営の会見」の歌詞が出るか、未練になるが、母の遠い日の記憶がどこかに残っている不思議さをも感じつつ、一日一日を祈る思いで過ごすこのごろである。
残念だが現実なれば是非もない。
昨年2012年夏、朝霧高原の「花鳥園」に遠足に行った元気は、今年の夏は無理かも知れぬとも予感している。
我が直系尊属をたどるとは言っても、私には祖父母までしかある程度の情報はわからない。
祖母の両親、さらにその両親くらいまでは、ごくおおざっぱな存在はつきとめられたが、寿命となると、もはや知るすべがない。
知る限りで最も長命したのが2011年に死んだ父である。
入浴中の不慮の事故がなければ、88の米寿までは何んとか生き続けたとは思うが、父は最後の日まで、とりあえず食欲があり、何より晩酌の支度を欠かさぬ生命力があった。
ひるがえって、母は認知症が大きく阻んで、食欲という本能を失いつつある。
3月23日(土)現在では、昼食後に出るオヤツのクッキーなどをほとんど食べるという食欲はあるものの、「お母さん、あーんして」と何回も促してようやくといった現状である。
前歯がだいぶ欠けた母が、それでも奥歯でお菓子をかむ音を聞くだけで、いくらかホッとするのは正直な気持ちだが、入所当時45キロほどあった体重はおよそ41キロに減った。
母の食欲に回復という奇跡的変化を期待するのは多分無理だ。
ただ、この日、陽気もポカポカして、そろそろ館内を散歩出来ると思った私は、母をしばらくぶりに、一階の大広間に連れて行った。すると、窓辺に近づいた母は、一心に外の景色を眺める。
冬のあいだは、インフルだ風邪だと、施設側がうるさかったから我慢していたが、母の部屋のあるリビングで車椅子に腰掛けさせていると、すぐにウトウトしてしまった。ところが、この23日の館内散歩のあいだ、母はうとうとすることなく、ずっと目をあけていた。
一階だけではない。何しろ傾いた日が強く、館内廊下にいる限り風にあたることがないので、夏の暑さのように日差しを受けて汗ばむほどだ。
三階廊下の突き当たりの窓辺でも、日差しを浴びながら、母はずっと外の景色を見つめていた。
やがて別のところへ移動し始めるころ、しばらくごぶさただからと半ば観念しながらも、私は車椅子の母の背中に向かって、母がただ一曲口ずさむ「水師営の会見」の2番の出だしを歌ってみた。
「庭にひともと・・・」である。すると母はテンポも合わせるような確かさで「なつめの木」と歌ってくれた。
私は車椅子をとめて、母に向かってしゃがみ、「お母さん、凄いね。一発で歌の続きが出たね」と肩をなでて礼ともほめ言葉とも言えるひとことを返した。
「水師営の会見」は私の世代でさえ、果たして何割が歌えるかというほど、古い軍歌であり、かつての小学唱歌である。
あと何回散歩が出来るか、そして、いつまで「水師営の会見」の歌詞が出るか、未練になるが、母の遠い日の記憶がどこかに残っている不思議さをも感じつつ、一日一日を祈る思いで過ごすこのごろである。
母との会話、尽きぬ夕べ
2012年12月7日 日常母「ね、ほら、こっちからずっと横にね・・」
私「あ、そうだね、横にずっと延びてるね
母「そう。だからね、あたしも、ちょっとあれはね・・・」
私「お母さん、朝のうち、少しあっちへ出かけたの ? 」
母」ううん、出かけやしないよ」
私「あ、出かけなかったんだ。でもさ、今朝は早起きして、少しあのへんで入り用なもの買ったでしょ ? 」
母「うん、買ったよ」
私「お母さん、少し買い物したの持つのに、疲れなかった ? 」
母「うん、疲れなかった」
私「あ、買い物の一つは、おばあちゃんのとこに寄って届けたから、少し荷物が楽になったね」
母「そうだよ」
私「でも、お母さん、あっちのとこ、歩いて来たとき、さすがに歩き疲れたでしょ ? 」
母「そうだね。疲れたね」
私「じゃあ、お腹もすいて、朝ごはんがおいしかったよね ? 」
母「うん、おいしかった」
私「じゃあ、いい運動したね」
母「運動なんてほどのものじゃないけどね、うんうん・・・」
私「でも、あのへん、ちょっとごみごみしたところを歩いたよね」
母「そうだよ。あそこはね・・・・・」
私「お母さん、また少し向こうが暗くなったね」
母「そうだね」
私「あ、もうきょうは、時間がけっこう過ぎちゃった。きょうは、おしゃべりよくしたね。へへへ」
母「そうだよ、あっははは」
私「じゃあ、玄関のところへ行って、それから上に帰ろうか ? 」
母「そうだね。行こうか」
私「ほら、玄関のところへ来たよ。もう、こっちも暗いね」
母「ねえ」
私「よっこいしょ。へへ、俺もきょうはやけに疲れるよ。椅子に腰掛けちゃった」
母「ははは」
私「さあて、お母さん、きょうはずいぶん時間が過ぎちゃったから、そろそろ向こうをまわって帰ろうか」
母「そうだね」
私「さあ、左へ16点回頭(かいとう)するよ」
母「うん」
私「さあ、まっつぐ行って、帰ろうね」
母「ね」
母の話に合わせて、話を続けると、母の笑い顔、笑い声を何度か確かめることが出来ることがある。
この12月6日夕方も、母がいろいろしゃべるうち、あっというまに時間が過ぎて、私の帰宅時刻近い、夕刻5時ごろになった。
こんな日がもうしばらく続くことを願いながら、すっかり暗くなった帰り道を車で走って帰宅した。
私「あ、そうだね、横にずっと延びてるね
母「そう。だからね、あたしも、ちょっとあれはね・・・」
私「お母さん、朝のうち、少しあっちへ出かけたの ? 」
母」ううん、出かけやしないよ」
私「あ、出かけなかったんだ。でもさ、今朝は早起きして、少しあのへんで入り用なもの買ったでしょ ? 」
母「うん、買ったよ」
私「お母さん、少し買い物したの持つのに、疲れなかった ? 」
母「うん、疲れなかった」
私「あ、買い物の一つは、おばあちゃんのとこに寄って届けたから、少し荷物が楽になったね」
母「そうだよ」
私「でも、お母さん、あっちのとこ、歩いて来たとき、さすがに歩き疲れたでしょ ? 」
母「そうだね。疲れたね」
私「じゃあ、お腹もすいて、朝ごはんがおいしかったよね ? 」
母「うん、おいしかった」
私「じゃあ、いい運動したね」
母「運動なんてほどのものじゃないけどね、うんうん・・・」
私「でも、あのへん、ちょっとごみごみしたところを歩いたよね」
母「そうだよ。あそこはね・・・・・」
私「お母さん、また少し向こうが暗くなったね」
母「そうだね」
私「あ、もうきょうは、時間がけっこう過ぎちゃった。きょうは、おしゃべりよくしたね。へへへ」
母「そうだよ、あっははは」
私「じゃあ、玄関のところへ行って、それから上に帰ろうか ? 」
母「そうだね。行こうか」
私「ほら、玄関のところへ来たよ。もう、こっちも暗いね」
母「ねえ」
私「よっこいしょ。へへ、俺もきょうはやけに疲れるよ。椅子に腰掛けちゃった」
母「ははは」
私「さあて、お母さん、きょうはずいぶん時間が過ぎちゃったから、そろそろ向こうをまわって帰ろうか」
母「そうだね」
私「さあ、左へ16点回頭(かいとう)するよ」
母「うん」
私「さあ、まっつぐ行って、帰ろうね」
母「ね」
母の話に合わせて、話を続けると、母の笑い顔、笑い声を何度か確かめることが出来ることがある。
この12月6日夕方も、母がいろいろしゃべるうち、あっというまに時間が過ぎて、私の帰宅時刻近い、夕刻5時ごろになった。
こんな日がもうしばらく続くことを願いながら、すっかり暗くなった帰り道を車で走って帰宅した。
母と「水師営の会見」
2012年10月5日 日常
10月4日木曜日の母の面会の時、いつものように三階のベランダに出て、母と二人で散歩している途中で、機嫌でも良かったのか、母がただ一曲必ず口ずさむ軍歌「水師営の会見」を鼻歌で歌うのが聞こえた。
私はここ数ヶ月、母が得意とする2番の「庭にひともと、なつめの木」と始まる歌詞がなかなか出なくなったので、ほとんどあきらめていたが、この日は思い切って車椅子の母に向かってしゃがみ、2番の出だしを歌ってみた。
母はうなずきながら調子をとったが、メロディーだけで、残念ながら歌詞は出なかった。
私は再び「庭にひともと」と歌ってみた。すると、「・・弾丸あとも、著く」の部分を母が合わせてくれた。
私は母に「一、二、三」と合図するかのように声をかけて、三たび2番をゆっくり歌い始めた。
母は私の顔を見ながら「庭にひともと、なつめの木、弾丸あとも・・」と一気に歌ってくれた。
認知症が次第に進行してはいるが、たとえひとときの慰めであろうとも、これだけのむつかしい歌詞の軍歌を母が声をそろえて歌ってくれたのは実に5月以来、およそ五ヶ月ぶりのことだった。
人生に永遠などということはない。だからこそ、ひとときの安らぎをおおいに感じ取り、いささか心和む散歩が終わった。
私はここ数ヶ月、母が得意とする2番の「庭にひともと、なつめの木」と始まる歌詞がなかなか出なくなったので、ほとんどあきらめていたが、この日は思い切って車椅子の母に向かってしゃがみ、2番の出だしを歌ってみた。
母はうなずきながら調子をとったが、メロディーだけで、残念ながら歌詞は出なかった。
私は再び「庭にひともと」と歌ってみた。すると、「・・弾丸あとも、著く」の部分を母が合わせてくれた。
私は母に「一、二、三」と合図するかのように声をかけて、三たび2番をゆっくり歌い始めた。
母は私の顔を見ながら「庭にひともと、なつめの木、弾丸あとも・・」と一気に歌ってくれた。
認知症が次第に進行してはいるが、たとえひとときの慰めであろうとも、これだけのむつかしい歌詞の軍歌を母が声をそろえて歌ってくれたのは実に5月以来、およそ五ヶ月ぶりのことだった。
人生に永遠などということはない。だからこそ、ひとときの安らぎをおおいに感じ取り、いささか心和む散歩が終わった。
特別養護老人ホームに落ち着いたお母さんへ
2012年6月4日 日常お母さん、特養に入って、早、3週間になりました。
事実上、ここがお母さんの人生最後の住まいになると思うと、正直さびしい気持ちですが、富士宮のショート・ステイに2ケ月余り過ごしたあいだに、またいくらか元気になったのは、うれしいことでした。
このかん、ソケイ部から感染したと思われる耳だれも発症しましたが、耳鼻科の薬剤に効き目があったのか、特養入所の頃にはだいぶ治りました。
もう6月の誕生日は射程に入ったと思っています。
2009年や2010年のように階段さえ自力で昇る体力は今や衰えているようですが、元来穏やかな性格のお母さんは、おとなしくて、きっと職員の人たちも扱いやすいと察します。
特養は今後冬期の寒さや路面状態に不安がありますが、今年残りの半年余りも、元気に過ごせることをひたすら願うばかりです。
僕がショートの頃から毎日面会に出かける日課は、今の特養でも記録を更新しつつあります。
目下の僕の体調ならば、この連日面会の記録はさらに更新間違いなしと察しられます。
再び正直なところという話になりますが、冬が不安な今の特養にお母さんを託し続けていいものか、心配が残ります。
これさえ解決すれば、個室形式の今の特養は、案外良い居住条件かも知れません。
お母さんと離れて暮らすようになった今の自宅での生活は、文字通り一人暮らしです。でも、お母さんが特養できのうもきょうも元気に生活し、三度の食事も無事、収まっている様子が今後も永く続けば、僕も本当に安心ですし、連日面会に行くのが励みになります。
風邪・流感そしてさらにこわい肺炎などにならない限り、お母さんは、たとえ細く長くであっても、長生き出来ると思えますし、そう願い祈ってやみません。
時節をみて、一度お母さんを自宅に連れ帰り、距離の適当な場所までドライブしようとも計画しています。
あるいは特養が企画する予定の遠足には参加することも考えています。
もし家族同行が許可されるのなら、もちろん僕も一緒に行きます。お母さんと外の風景を見るのが楽しみです。
お母さんの健康長寿を祈りつつ、また励みとし、僕も自宅での一人暮らしをなるべく元気に続けて行きたいと思っています。
事実上、ここがお母さんの人生最後の住まいになると思うと、正直さびしい気持ちですが、富士宮のショート・ステイに2ケ月余り過ごしたあいだに、またいくらか元気になったのは、うれしいことでした。
このかん、ソケイ部から感染したと思われる耳だれも発症しましたが、耳鼻科の薬剤に効き目があったのか、特養入所の頃にはだいぶ治りました。
もう6月の誕生日は射程に入ったと思っています。
2009年や2010年のように階段さえ自力で昇る体力は今や衰えているようですが、元来穏やかな性格のお母さんは、おとなしくて、きっと職員の人たちも扱いやすいと察します。
特養は今後冬期の寒さや路面状態に不安がありますが、今年残りの半年余りも、元気に過ごせることをひたすら願うばかりです。
僕がショートの頃から毎日面会に出かける日課は、今の特養でも記録を更新しつつあります。
目下の僕の体調ならば、この連日面会の記録はさらに更新間違いなしと察しられます。
再び正直なところという話になりますが、冬が不安な今の特養にお母さんを託し続けていいものか、心配が残ります。
これさえ解決すれば、個室形式の今の特養は、案外良い居住条件かも知れません。
お母さんと離れて暮らすようになった今の自宅での生活は、文字通り一人暮らしです。でも、お母さんが特養できのうもきょうも元気に生活し、三度の食事も無事、収まっている様子が今後も永く続けば、僕も本当に安心ですし、連日面会に行くのが励みになります。
風邪・流感そしてさらにこわい肺炎などにならない限り、お母さんは、たとえ細く長くであっても、長生き出来ると思えますし、そう願い祈ってやみません。
時節をみて、一度お母さんを自宅に連れ帰り、距離の適当な場所までドライブしようとも計画しています。
あるいは特養が企画する予定の遠足には参加することも考えています。
もし家族同行が許可されるのなら、もちろん僕も一緒に行きます。お母さんと外の風景を見るのが楽しみです。
お母さんの健康長寿を祈りつつ、また励みとし、僕も自宅での一人暮らしをなるべく元気に続けて行きたいと思っています。
お母さん、疲れたんですね。これからはゆったりお過ごし下さい。
2012年2月28日 日常以下、楽天ブログの転載である。
先んじて母に訣別す (2) [ 特筆日記 ]
去年、お母さんに「もう一度元気になってくれたら、その次はぜいたくを言いません」と約束しました。
お母さんは去年12月の最後のデイ・サービスをきちんと務め終わったところで、それまで耐えて来た疲れが出たのですね。
この先のことはわかりませんが、もはや再び回復して欲しいというわがままは申しません。
お母さん、本当に疲れたんですよね。
よくここまでがんばってくれました。
デイ・サービス施設の「向日葵」に対しては、どういうわけか去年晩秋の頃から、敷居が高く感じられるようになっていました。
お母さんはいつでもどこにいても笑顔を絶やさず、穏やかにしていて、周囲から好かれていたと察します。でも私は職員の者共の冷たさをやけに感じるばかりになりました。
私の冗談は職員共の冷たい応えとなって返って来るようになりました。
お母さんが世話になったことへの恩は今や消え去りました。
他人は所詮他人、そのことをいたく感じました。
人は一人では生きていけないという、もっともらしい言葉はウソです。
不世出の空手の天才・大山倍達氏を描いた「空手バカ一代」連載当時の最初のページの言葉の通り「頼るは己の五体のみ」というのが真実です。
認知症になる以前のお母さんは、凛とした態度を保ち、世の流行などに迎合しない考えを貫いていましたね。
今のお母さんしか知らぬデイ・サービスの職員共には想像もつかない毅然たる姿勢が頼もしいほどでした。
認知症という忌まわしき病変で脳をやられれば、どんな人間とて、本来の性格を維持することは不可能です。
まことに悔しい限りですが、人間は脳の力で生きているようなものです。
その大事な脳をむしばまれれば、たとえ大学の量子論の教授とて、たちどころに量子論はおろか、自分の姓名・生年月日を言うこともかなわなくなります。
もちろん今これを書いている私も例外ではありません。
ボケ予防などというのも、ウソだと断じます。医学が驚異的な進歩を遂げて、認知症を飛躍的に改善するか完治させる治療法がみつかる時が来ないうちは、この症状は現状がまだまだ長いあいだ続くばかりであり、そのかん、介護職の者共がたつきとして働いてある程度潤うという状態が続くことでしょう。
私は遠い将来かどうか、その時に画期的治療法が確立されて、それまでいい気になって認知症介護のプロ意識でごうまんになっていた者共が、いよいよその職を追われる時が到来することを、ずっと望んでいます。
老化のせいで介護を不可欠とする人々にとっては、介護は役立つでしょうが、認知症が治る未来には、デイ・サービス・センターなどという施設は激減し、職員・ヘルパーなどの大半が失職の憂き目をみることになるはずです。
かつて雨後のたけのこの如く乱立したレンタル・ビデオ店のほとんどが壊滅したように、介護施設も同じ運命をたどる時代が来ることを信じ、願ってやみません。
その時が必ず来ると確信し、今のところは長寿をのばすことが厳しくなっているお母さんに、厚和は今、早めのお別れを申し上げておきます。
至らぬところ多々ありながらも、お母さんの下(しも)のお世話をすることが出来たことは、不肖の息子の私の生きがいでもありました。
お母さんが私を誠心誠意育ててくれた恩に、報いるほどのことはとても出来ない申し訳なさを感じておりますが、その恩の万分の一なりともお返しすべく、出来るだけのことを致しとう存じます。
ただいまから先は、いわゆる延命などという、人を人とも思わぬ無礼な医療措置は断固拒否して、お母さんが天寿を全うする日までを、見守りとう存じます。
お母さんに生んでいただき、その無償の愛情に育まれた私は幸せ者でした。
今日明日にという状態ではないと察しますが、今ここに、お別れの言葉を感謝の気持ちと共に述べることと致します。
お母さん、本当にありがとうございました。
願わくは、天寿を全うするいよいよという瞬間、絶命にいたる呼吸困難の苦しみを味わうことなく、先に意識が薄れ消え去り、文字通り眠るように旅立たれんよう。
先んじて母に訣別す (2) [ 特筆日記 ]
去年、お母さんに「もう一度元気になってくれたら、その次はぜいたくを言いません」と約束しました。
お母さんは去年12月の最後のデイ・サービスをきちんと務め終わったところで、それまで耐えて来た疲れが出たのですね。
この先のことはわかりませんが、もはや再び回復して欲しいというわがままは申しません。
お母さん、本当に疲れたんですよね。
よくここまでがんばってくれました。
デイ・サービス施設の「向日葵」に対しては、どういうわけか去年晩秋の頃から、敷居が高く感じられるようになっていました。
お母さんはいつでもどこにいても笑顔を絶やさず、穏やかにしていて、周囲から好かれていたと察します。でも私は職員の者共の冷たさをやけに感じるばかりになりました。
私の冗談は職員共の冷たい応えとなって返って来るようになりました。
お母さんが世話になったことへの恩は今や消え去りました。
他人は所詮他人、そのことをいたく感じました。
人は一人では生きていけないという、もっともらしい言葉はウソです。
不世出の空手の天才・大山倍達氏を描いた「空手バカ一代」連載当時の最初のページの言葉の通り「頼るは己の五体のみ」というのが真実です。
認知症になる以前のお母さんは、凛とした態度を保ち、世の流行などに迎合しない考えを貫いていましたね。
今のお母さんしか知らぬデイ・サービスの職員共には想像もつかない毅然たる姿勢が頼もしいほどでした。
認知症という忌まわしき病変で脳をやられれば、どんな人間とて、本来の性格を維持することは不可能です。
まことに悔しい限りですが、人間は脳の力で生きているようなものです。
その大事な脳をむしばまれれば、たとえ大学の量子論の教授とて、たちどころに量子論はおろか、自分の姓名・生年月日を言うこともかなわなくなります。
もちろん今これを書いている私も例外ではありません。
ボケ予防などというのも、ウソだと断じます。医学が驚異的な進歩を遂げて、認知症を飛躍的に改善するか完治させる治療法がみつかる時が来ないうちは、この症状は現状がまだまだ長いあいだ続くばかりであり、そのかん、介護職の者共がたつきとして働いてある程度潤うという状態が続くことでしょう。
私は遠い将来かどうか、その時に画期的治療法が確立されて、それまでいい気になって認知症介護のプロ意識でごうまんになっていた者共が、いよいよその職を追われる時が到来することを、ずっと望んでいます。
老化のせいで介護を不可欠とする人々にとっては、介護は役立つでしょうが、認知症が治る未来には、デイ・サービス・センターなどという施設は激減し、職員・ヘルパーなどの大半が失職の憂き目をみることになるはずです。
かつて雨後のたけのこの如く乱立したレンタル・ビデオ店のほとんどが壊滅したように、介護施設も同じ運命をたどる時代が来ることを信じ、願ってやみません。
その時が必ず来ると確信し、今のところは長寿をのばすことが厳しくなっているお母さんに、厚和は今、早めのお別れを申し上げておきます。
至らぬところ多々ありながらも、お母さんの下(しも)のお世話をすることが出来たことは、不肖の息子の私の生きがいでもありました。
お母さんが私を誠心誠意育ててくれた恩に、報いるほどのことはとても出来ない申し訳なさを感じておりますが、その恩の万分の一なりともお返しすべく、出来るだけのことを致しとう存じます。
ただいまから先は、いわゆる延命などという、人を人とも思わぬ無礼な医療措置は断固拒否して、お母さんが天寿を全うする日までを、見守りとう存じます。
お母さんに生んでいただき、その無償の愛情に育まれた私は幸せ者でした。
今日明日にという状態ではないと察しますが、今ここに、お別れの言葉を感謝の気持ちと共に述べることと致します。
お母さん、本当にありがとうございました。
願わくは、天寿を全うするいよいよという瞬間、絶命にいたる呼吸困難の苦しみを味わうことなく、先に意識が薄れ消え去り、文字通り眠るように旅立たれんよう。
お母さん、2011年になりました。
2011年8月14日 日常
お母さん、こないだの夜は、こらえ性のない一番悪い性格が出て、お母さんを怒鳴ってしまって、ごめんなさい。
激昂して大声を出しているあいだのお母さんの表情が目に焼きついています。
はた目にはひどく当惑しているようには見えませんが、それも認知症がゆえ、頭に血がのぼっている私を、お母さんなりにただただ静かに見守るしかなかったのですね。
ほどなくお母さんは、大声で怒鳴られたことも忘れ、穏やかないつもの顔を見せてくれました。
それでも気持ちが済まずに自分が先ほどのことをあやまると、「何を言ってるんだい。そんなこと気にしなくていいんだよ」と、笑顔を浮かべ、全く無条件に許してくれました。
あらゆる争い・もめごとを嫌うのがお母さんの本来の性格ということが改めてわかりました。
大東亜戦争の東條英機氏以下のA級七戦犯に「罪は無し」と、インドのパール判事の判決と同じ意見を言ったその心に、「本来は争いはいやだ」という考えがある事実は、お母さんの偽りなき平和思想を表わしており、まことに重いものを感じます。
今さらですが認知症が憎いです。
お母さん、三たびのわがままは必ず言わないと去年書きました。
お母さんは見事に肺炎から回復して元気になりました。
でも、その回復ぶりは、階段をのぼれるまでのものとは夢にも思いませんでした。
今年、2011,年4月12日火曜日夜、ちょっと目をはなしたあいだに階段を自力でのぼってさらに降りようとしてつまずき、あばら骨を骨折するとは、さぞ痛かったでしょうね。
あの時のうめき声はお母さんのものとは聞こえませんでした。
お母さん、約束は約束です。肋骨の怪我は大変でしたが、それさえも克服しました。
それからはさすがに衰えが見られる気がしますが、もうこれ以上がんばる必要はありませんよ。
もう人生に幕を下ろしていいなどとは思いませんが、今がお母さんの晩年ということを否定することも出来ません。余り丈夫でない身体でよくぞ84まで生きました。
しかしながらお母さんに万一のことがあったあと、私は生けるしかばねとなるかも知れません。自殺した沖田浩之氏が雑誌インタビューで言っていました。
「父親が自殺した時はさほどショックではなかったが、母に病気で死なれた時はショックで心底参った」と。
今はここまでしか書けません。
激昂して大声を出しているあいだのお母さんの表情が目に焼きついています。
はた目にはひどく当惑しているようには見えませんが、それも認知症がゆえ、頭に血がのぼっている私を、お母さんなりにただただ静かに見守るしかなかったのですね。
ほどなくお母さんは、大声で怒鳴られたことも忘れ、穏やかないつもの顔を見せてくれました。
それでも気持ちが済まずに自分が先ほどのことをあやまると、「何を言ってるんだい。そんなこと気にしなくていいんだよ」と、笑顔を浮かべ、全く無条件に許してくれました。
あらゆる争い・もめごとを嫌うのがお母さんの本来の性格ということが改めてわかりました。
大東亜戦争の東條英機氏以下のA級七戦犯に「罪は無し」と、インドのパール判事の判決と同じ意見を言ったその心に、「本来は争いはいやだ」という考えがある事実は、お母さんの偽りなき平和思想を表わしており、まことに重いものを感じます。
今さらですが認知症が憎いです。
お母さん、三たびのわがままは必ず言わないと去年書きました。
お母さんは見事に肺炎から回復して元気になりました。
でも、その回復ぶりは、階段をのぼれるまでのものとは夢にも思いませんでした。
今年、2011,年4月12日火曜日夜、ちょっと目をはなしたあいだに階段を自力でのぼってさらに降りようとしてつまずき、あばら骨を骨折するとは、さぞ痛かったでしょうね。
あの時のうめき声はお母さんのものとは聞こえませんでした。
お母さん、約束は約束です。肋骨の怪我は大変でしたが、それさえも克服しました。
それからはさすがに衰えが見られる気がしますが、もうこれ以上がんばる必要はありませんよ。
もう人生に幕を下ろしていいなどとは思いませんが、今がお母さんの晩年ということを否定することも出来ません。余り丈夫でない身体でよくぞ84まで生きました。
しかしながらお母さんに万一のことがあったあと、私は生けるしかばねとなるかも知れません。自殺した沖田浩之氏が雑誌インタビューで言っていました。
「父親が自殺した時はさほどショックではなかったが、母に病気で死なれた時はショックで心底参った」と。
今はここまでしか書けません。